田村潔司「解析UWF」第6回…個性豊かな外国人選手の招集
UWFの分裂後に誕生したUインターでは、個性豊かな外国人選手の招集が盛んに行われた。「殺人スープレックス」を武器にスターダムへとのし上がったゲーリー・オブライトもそのうちの一人である。ただ、田村と対戦当時のゲーリー、そしてプロレス界を取り巻く状況は決して穏やかでなく、ゲーリーと対峙した田村はすぐにその異変に気づくことになる。激動の時代に交えた一戦は、当時の状況を象徴する結末へと進んでいくのであった。
1988年の旗揚げ時、たった6人でスタートした新生UWF。1年後に藤原喜明さん、船木誠勝さん、鈴木みのるさんが新日本プロレスから移籍してきて、その後、ボクやカッキー(垣原賢人)、冨宅飛駈が生え抜きとしてデビューしたけれど、所属選手はせいぜい10人ちょっと。興行的には常にカードのマンネリ化という問題を抱えていた。
それを解消するために必要不可欠だったのが、外国人レスラーの存在。しかし当時、キックとサブミッションを中心としたUWFスタイルのプロレスを行っているのは、それこそ日本の新生UWFだけ。UWFに合う外国人レスラーを探してくるのは、そんなに簡単なことではなかったと思う。
新生UWFではレフェリーをやられていたミスター空中さんがカール・ゴッチさんの娘婿で、フロリダ州タンパのマレンコ道場でコーチもされていた関係で、マレンコ道場にいた選手の中からUWFのスタイルに合う選手を選抜し、闘い方をレクチャーして日本に呼ぶということをしていた。また後期は、異種格闘技戦で参戦したクリス・ドールマンのルートからオランダの選手たちも参戦するようになり、少しずつ陣容に厚みが増していった。
しかし、UWFが3派に分裂したあとは、マレンコ道場の選手たちは藤原さんと空中さんとの関係からプロフェッショナルレスリング藤原組へ。オランダの選手たちは、前田さんがドールマンと契約を結んだことでリングスの専属となった。そのため、ボクが参加したUWFインターナショナルは、またイチから外国人レスラーを発掘しなければならなかった。
ただ幸運だったのは、新生UWFが2年半活動する中で、「こういうスタイルでやってみたい」という外国人レスラーがちょこちょこ増え出していたこと。Uインターは、さまざまなルートを通じてUWFのスタイルに合った外国人レスラーを独自に発掘していく。
その外国人レスラー発掘において中心的な役割をはたしていたのが、元新日本プロレスのレスラーで、Uインターではブッカー(渉外担当)を務められていた笹崎伸司さん。笹崎さんは奥さんのキャティさんが英語が堪能だったので、いろんなルートからアマチュアで実績がある選手や、インディー団体に出ている選手でUWFスタイルに対応できそうな選手を見つけてきては、Uインターアメリカ道場に集めて、集中トレーニングを施してから日本に送り込んでいた。
「Uインターアメリカ道場」といってもそういうジムがあるわけではなく、笹崎さんとキャティさんの事務所があったテネシー州ナッシュビルにあるボクシングジムを間借りして、そこで笹崎さんやビル・ロビンソンさんが指導して、アマチュア上がりの選手やインディーのレスラーをUインター用のレスラーに“変身”させていたのだ。
同じような役割をはたしていたのが、バージニア州ノーホークにあったルー・テーズさんの道場。そこもテーズさんが道場を所有しているわけではなく、ご自宅近くのボクシングジムで若い選手に稽古をつけられていた。ボクも若い頃に一度、テーズさんのところに修行に行かせてもらったことがあるが、その時にテスト生みたいな感じでいたのがダン・スバーン。彼はもともとアマチュアレスリングで実績があって、プロレスに転向したけれど、現行のアメリカンプロレスではあまり活躍できていなかったところ、笹崎さんが発掘した選手。
スバーンはその後、UFCでチャンピオンになって有名になるけれど、もともとアマチュアレスリングのベースがあって、Uインターを経たことで打撃などにも免疫ができたことで、あれだけの活躍ができたんだと思う。
ベイダー参戦で生じたオブライトの危機意識
Uインターに来る外国人レスラーは、ナッシュビルの道場でUWFスタイルを学んでから来日していたけれど、正直、キックなどは見よう見まねの選手が多かった。構えもレスリングの構えのままキックをやっていたので、どうしても不恰好に見える。今のMMAのように、打撃もサブミッションもレスリングもトータルでやるような選手はそこまでいなかった印象がある。
そんな中でゲーリー・オブライトは、あえてキックは使わず、自分の持っているレスリング技術を全面に出して成功した選手。もともとアマチュアレスリングからプロレスに転向したものの通常のプロレスではその才能を開花させることができなかったのが、Uインターに来ることで、格闘スタイルと彼のレスリングがすごく合致したんだと思う。“殺人スープレックス”と呼ばれたジャーマンスープレックス、そしてドラゴンスープレックスが最大の武器で、一気にスターダムに上がっていった。
ゲーリーに関してはボクも少なからず因縁がある。
彼はUインターに初めて来た時はまだ無名の選手で、最初の数試合までは緊張していたと思う。それが自分で結果を残してランクを上げて行くなかで、ボクに対する態度が「小僧」的なものに切り替わった瞬間があった。
たしかあれはUインターの旗揚げ2年目で、ゲーリーが初めて髙田(延彦)さんをジャーマンでKOした試合(92年5・8横浜アリーナ)の直後だったと思う。静岡の大会でゲーリーとタッグで当たったとき(92年7・12静岡産業館、山崎一夫&田村潔司vsゲーリー・オブライト&マーク・シルバー)、ゲーリーがガッチガチに来て押さえ込んできた。
もちろん試合を壊すような一方的なものではなく、ちゃんと緩急はつけているんだけど、その中でガッと強い圧をかけてくる場面が何度かあった。ボクもやり返したり、「来いよ! カモン、カモン!」って挑発して、リング内でちょっとした口喧嘩のようになったりして、ギリギリのケンカマッチのようになったのが、やっていて緊張感もあっておもしろかった。ゲーリーからしてみたら、「自分はエースのタカダを破ったトップだ」という思いがあるから、若い田村に対しては格の差を見せようとしていたんだと思う。プロレスラーとしては当然のことだけれど、ゲーリーはUインターの外国人側のトップというポジションに強いこだわりがあった印象がある。だからベイダーがUインターに来てからは常にピリピリしていたし、明らかに意識している感じがあった。
ベイダーは80年代後半に新日本プロレスのトップ外国人になり、その知名度は全国区。また当時、アメリカではWCWの現役世界ヘビー級チャンピオンでもある超大物だったので、ゲーリーからしたらかなり危機感があっただろうし、「このリングではデカい顔はさせない」という強い対抗意識があったと思う。
でも、ベイダーが来てからはやはり、ゲーリーのUインター内での見えない“番付”が徐々に落ちていった。それまでUインターは、東の横綱が髙田延彦、西の横綱がゲーリーだったのが、その座をベイダーに奪われた感があった。
そういった自分のポジションに対する危機感や、Uインターという団体に対する不満など、いろんな要素が合わさって起こってしまったのが、田村とゲーリー・オブライトによる、いわゆる“セメントマッチ”だったんだと思う。
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取材・文=堀江ガンツ
田村潔司=たむら・きよし|1969年12月17日生まれ、岡山県出身。1988年に第2次UWFに入団。翌年の鈴木実(現・みのる)戦でデビュー。その後UWFインターナショナルに移籍し。95年にはK-1のリングに上がり、パトリック・スミスと対戦。96年にはリングスに移籍し、02年にはPRIDEに参戦するなど、総合格闘技で活躍した「孤高の天才」。現在は新団体GLEATのエクゼクティブディレクターを務めている。
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