清原和博が野球人としてもっとも輝いていた時代を読む2~プロ野球死亡遊戯があえて“令和の夏”に書きたかった話(著/中溝康隆)
さすがに清原サイドもこれらの流れには危機感を覚えたのだろう。11月14日、PL学園へ挨拶に訪れた巨人Iスカウト部次長と清原一家は1時間半にも及ぶ会談を行ったが、最後まで「必ず1位に」という確約はもらえなかった。半信半疑の清原の母が「巨人はドラフト当日に1位指名選手を誰にするか決定するというのは本当なのでしょうか?」と尋ねると、「それが巨人の方針ですから」と返されたという。海千山千の大人たちの前で、18歳の清原和博はあまりに無邪気で無防備だった。もう少しお互いのことを利用できるほどタフだったら、また違った展開があっただろう。「昨日は阪神のスカウトからこう褒められた。今日はどこのスカウトと会う」なんて休み時間に教室のクラスメートたちに逐一報告し盛り上がる等身大のキヨマー。その様子を横目で見ていたのが、最後まで自分の本心を誰にも明かさず、たったひとりの仮面舞踏会に臨んだ桑田である。
キャラクターや性格含めあまりに対照的で、同時代に同級生として出会ったふたりの規格外の天才。皮肉なことに彼らはともに夢を見て同じハッピーエンドを迎えるには、野球の才能に恵まれすぎた。その栄光に彩られた高校生活の悲劇の結末は、突然ではなく、必然だったのかもしれない。85年11月20日午後11時13分、東京・九段下のホテルグランドパレス会場に、司会のパンチョ伊東の声が鳴り響いた。これが、終わりの始まりか──。
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