プロレスラー大谷晋二郎、新日本に憧れた男…炎の戦士が30年貫いたレスラー論
幼少期から新日本に憧れていた少年は、1992年に新日本プロレスの門を叩いた。一貫したレスラーに対する憧れによって、体制に揉まれながらもレスラーとしての土台を築いていった。そんな彼が現在もリングに立ち続ける背景には、故・橋本真也の遺志があった。そして、来たる4・10両国国技館。炎の戦士が30年間のレスラー人生を全て捧げる。
新田恵利テレホンサービス
――大谷さんはもともと熱狂的な新日本プロレスファンだったことで知られてますけど、50周年を迎えたことに対してどんな思いがありますか?
大谷晋二郎 すごいことですよね。僕、新日本プロレスができた年に生まれたんですよ。
――あっ、1972年生まれなんですね。
大谷晋二郎 子供の頃、勝手に運命だと思ってたんで(笑)。
――新日本プロレスの申し子だと(笑)。
大谷晋二郎 今年、新日本が50周年で僕も50歳ですから、すごく思い入れがありますよ。僕が新日本に所属したのは
10年ぐらいですけど、言ってみれば、ファン時代もずっと新日本とともに過ごしたと思ってるから。
――物心ついたときから、生活がプロレス一色みたいな。
大谷晋二郎 僕らの子供の頃って、プロレス人気がすごかったじゃないですか。金曜夜8時の新日本はもちろん、全日本も土曜7時にやってた時があって。
――80年代半ばですね。僕も大谷さんの1歳下だからよくわかります。
大谷晋二郎 さらに月曜7時からクラッシュ・ギャルズの全日本女子プロレスまでやってたので、週3回ゴールデンタイムでやってましたから。すごい時代ですよね。
――関東だとさらに、月曜8時からテレ東の『世界のプロレス』もありましたからね。
大谷晋二郎 僕は山口県ですけど、『世界のプロレス』は夜中に観られたんですよ。多分、九州のほうから電波が来てたのかな。そこでロード・ウォリアーズやジャイアント・キマラ、ミッシング・リンクを知るんですよね。
――そんな時代だから、クラスの男子はほとんど全員プロレス中継観てましたよね。
大谷晋二郎 男の友達はみんな観てました。で、当時は生中継だから試合の途中で古舘伊知郎さんが「ごきげんよう、さよなら!」って言って、番組が終わっちゃうことも多かったじゃないですか。そうすると、僕は九州スポーツ(東スポ九州版)に電話して試合結果を聞いてましたから。ちゃんと「延髄斬りからの体固めで猪木の勝ちです」とか教えてくれるんです。だから僕の学校では「大谷が結果を知ってるぞ」っていう噂が広まって、土曜日はみんな僕のところに聞きにきましたね。
――のちに週プロがテレホンサービスで試合結果を流してましたけど、その先駆け、人間テレホンサービスですね(笑)。
大谷晋二郎 テレホンサービスって一時期流行りましたよね。わー、思い出すなあ。僕はプロレスだけじゃなく、おニャン子クラブも大好きだったんですよ。新田恵利が好きだったんで、新田恵利のテレホンサービスに何回もかけたのを覚えますね(笑)。
――僕も新田恵利となかじー(中島美春)のファンでしたけど(笑)。
大谷晋二郎 同じじゃないですか!(笑)
――新田恵利のテレホンサービスなんてあったんですね。
大谷晋二郎 ただ録音してあるのを聴くだけなんですけど、会話したつもりになってるんですよ。
――「りかちゃん電話」的な(笑)。でも、プロレスもアイドルも当時はみんな10代の少年が青春のすべてを懸けて応援していたから、熱狂度が違いましたよね。
大谷晋二郎 まさにそうですね。斜に構えて見たりすることは一切なかった。プロレス、おニャン子、ハウンドドッグ。この3つが僕の青春のすべてでしたから!
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