スタン・ハンセン「『ラリアット』がプロレス技として辞書に載ったりしたら、こんなに光栄なことはないね」
――ハンセンさんは、猪木さんと馬場さん両方のライバルだったわけですけど、プロレスラーとして、またプロモーターとして二人を比べた場合、いかがですか?
ハンセン ミスター・イノキは、日本で最初にチャンスを与えたくれた人で、ニュージャパン(新日本プロレス)は自分のキャリアの本当の意味でのスタートみたいなところがあるから、非常に感謝している。一方、時間的な意味で最も長く闘ったのはオールジャパン(全日本プロレス)で、ミスター・ババは長年、自分にとってボスでもあった。どちらも自分にとっては恩人のようなものだから、その二人を比べることはできないね。英語ではよく「リンゴとオレンジを比べるようなこと」と言うんだけど、比べようがないんだ。
――僕らファンからすると、もともと「ハンセンは新日のリングでこそ輝く」と思っていたんで、81年に全日本に移籍してからさらに大活躍したのを見て驚いたんですよ。馬場さんとの初対決の前なんて、「43歳の馬場はハンセンに殺されるんじゃないか?」って言われてたくらいで(笑)。
ハンセン 殺したくないよ(苦笑)。でも、実際に闘った私に言わせれば、あの時のババは、まだまだトップで闘える力を充分に持っていたよ。そしてババはオールジャパンのビッグボスでもあったわけだけど、私を始めとした“従業員”であるガイジンに対して、「遠慮なく思い切りぶつかってこい」という感じだったんだ。自らが身体を張って、オールジャパンの試合をより激しいものにしようとしていた気がするね。
――その結果、ハンセンさんと馬場さんの初対決(82年2月4日、東京体育館)は、その年の年間最高試合に選ばれましたけど。「自分が全日本の試合を、オールドスタイルからより激しいスタイルに変えた」という自負はありますか?
ハンセン 自分のスタイルは、ニュージャパン時代にかなりの部分が出来上がっていたので、オールジャパンに移籍する時も、ミスター・ババに「ここに来ても、自分のスタイルを変えるつもりはない」と伝えたんだ。そうしたらババは、「むしろ変えてほしくない。そのままの闘い方でウチのリングを変えてくれ」と言われたんだよ。だから、より激しいスタイルにするというのは、自分の意思であると同時に、ババの考えでもあったんだ。
――馬場さんこそ、「全日本は変わらなきゃいけない」という思いが強かったわけですね。
ハンセン だからこそ、私の力が必要だったんだろうしね。