猪木と馬場、二人の神を師に仰ぐ双頭のサムライ・越中詩郎が語る
数々の名レスラーと相対してきた“侍戦士”越中詩郎にインタビュー。師匠である猪木、馬場の両レジェンドとの思い出を語る。
この世の地獄メキシコ
――越中さんは1979年に全日本プロレスでデビューして、ジャイアント馬場さんの付き人を長く務め、85年に新日本に移籍しましたけど。あの時代、全日本デビューの人が新日本に行くって、きわめて稀でしたよね。
越中詩郎 自分でもまさか移籍するとは思ってなかったけどね。ただ、メキシコに修行に出て以来、(ジャイアント)馬場さんから連絡があったのは「三沢(光晴)を日本に返せ」っていう電話が来た、その時だけ。
――一緒にメキシコ修行していた三沢さんだけ、2代目タイガーマスクになるための帰国命令が出たんですよね。
越中詩郎 自分も帰国したいという以前に、とにかくメキシコから出たいという思いでしたよ。三沢がいた頃はタッグチームで売れるから、アレナ・メヒコ(メキシコシティの大会場)のメインなんかでできたんだけど、一人になってメキシコ人のパートナーを毎回変えてやっても、まあ知れてるわけで。これ以上ここにいても条件はひどいし、食べ物にあたって体重はみるみる減っていくし、プロレスが上達するとも思えない。馬場さんにも言ったんですよ、「三沢を戻せ」っていう連絡が来た時、「こっちはこういう状況です。アメリカに行けるように骨を折ってもらえませんか」って。でも、そこから連絡はありませんでしたね。
――それは、見捨てられたような気持ちになりますよね。
越中詩郎 当時のメキシコは大変ですよ。リングの状態はひでぇし、リング下はコンクリートむき出しとかなんですよ。だから、ロープに飛んだらロープが切れてそのまま場外に落ちて死んじゃったヤツはいるし、場外へプランチャやったら相手がよけて死んじゃったヤツもいたし、めちゃくちゃでしたね。
――まさに命懸けですね。
越中詩郎 毎週日曜日にアレナ・コリセオっていう日本の後楽園ホールみたいな会場で試合があったんだけど、そこは警察も介入できない犯罪者が逃げ込む危ない地区にあってね。車で会場の前まで送ってもらったら「走って中に入れ」って言うんですよ、強盗に襲われるかもしれないからって。よくそんなメキシコで2年間も無事過ごせたと思って。当時のメキシコシティは犯罪が日常茶飯事で、刑務所が満杯で入れないって言ってましたから。
――刑務所が収容人数オーバー(笑)。
越中詩郎 そんな状況の中、俺に声をかけてくれたのが坂口(征二)さんでしたね。新日本も選手大量離脱があって大変だったらしいけど、メキシコにいるとほとんど情報も入ってこないし、人を介して坂口さんから連絡をもらったときも、最初は新日本に来るこないの話じゃなかった。坂口さんもメキシコの大変さをわかってたから、「気分転換にロサンゼルスまで来ないか。メシでも食おう」って言ってもらえてね。それはうれしかったですよ。
――孤独な中、救いの神みたいな感じだったんでしょうね。
越中詩郎 ロスで坂口さんに日本料理屋に連れて行ってもらってね。たぬきそばを注文してスープまで全部飲んで、あの味は忘れられないですよ。坂口さんがいなかったら、どんぶりをペロペロ舐めたいくらいだった。
――そこから新日本移籍が決まるわけですか。
越中詩郎 ロスに2回呼んでもらったあと、新日本のハワイ大会に呼んでもらって。猪木さんや藤波さんも来ていたんで紹介されて、そこで「日本に帰ってこいよ」って言ってもらえたんで、「よし、新日本に行こう」って決めましたね。帰る前、JALのビジネスクラスの航空券を送ってもらったんだけど、JAL機の翼にある鶴のマークを見た時、泣けてきましたよ。「これで帰れるんだ」って。
――引き揚げ兵のようですね。
越中詩郎 だから坂口さんは恩人ですよ。
――でも、あの当時の全日本と新日本って水と油みたいな感がありましたから、最初は新日本の選手から変な目で見られたりもしたんじゃないですか?
越中詩郎 みんな白い目で見てたと思いますよ。当たりも強かったしね。そんな中で、唯一声をかけてくれたのは、藤波さんと星野(勘太郎)さん。シリーズ中、「大丈夫か?」「がんばれよ」みたいに声をかけていただき、遠くからは坂口さんも見ていくれて、それもありがたかったですね。
興行の天才たち
――新日本に移ったばかりの頃、猪木さんとの接点はあったんですか?
越中詩郎 なかったですね。3年くらい経ってからですよ。地方で俺と武藤(敬司)が変わりばんこに猪木さんのパートナーをやらせてもらうようになってからですね、やわらかい顔をしてくれるようになったのは。
――猪木さんが国会議員になるちょっと前ぐらいの時代ですね。
越中詩郎 それまでは選手たちに甘い顔を見せない厳しい人でしたし、髙田(延彦)と両国国技館でやって負けて控室に帰って来た時、「なにやってんだ! あんな試合やりやがって!」って叱咤されたこともあったんですよ。試合で猪木さんに怒られたのは、その一回だけかもしれない。
――でも、新・名勝負数え唄と言われた髙田戦で怒られたっていうのは意外ですね。
越中詩郎 猪木さんからすると、見ていて何か気に食わなかったんだと思うんですよ。たしか、猪木さんはメインでスティーブ・ウィリアムスと一騎打ちで、その準備が整ってガウンも着た猪木さんに「何やってるんだ!」って怒られてね。具体的に何が悪いかは言われなかったんですけど。
――期待されているカードだったからこその叱咤だったのかもしれないですけどね。
越中詩郎 猪木さんは見てないようでちゃんと見てるんですよ。地方でも舞台の袖で、第1試合から見てるんだから。それは緊張が走りますよ。それで動きが悪かったり、覇気がなかったりしたら、猪木さんがリングまで行ってぶん殴ってましたからね。
――越中さんが新日本に行った時代もまだそうだったんですか。
越中詩郎 そうやって、長いシリーズ中でもダレた空気にしないようにしてたんでしょうね。緊張走りましたもん。
――時期は前後しますけど、越中さんはファン時代や全日本時代、猪木さんをどう見ていましたか?
越中詩郎 近くで見ていたわけじゃないけど、やっぱりすごかったと思いますよ。こう言っては申し訳ないけど、新日本に来たばかりの頃のタイガー・ジェット・シンとかスタン・ハンセンはまだまだ荒削りだったわけじゃないですか。そういうレスラーと名勝負にしちゃう凄さというのは、ぼくは自分がプロレスラーとしてキャリアを積んでよけいに感じました。
――70年代まで、全日本には超一流の外国人レスラーが揃ってましたけど、新日本は無名に近いレスラーが猪木さんと試合することによって磨かれていきましたもんね。
越中詩郎 ハルク・ホーガンだって、来たばかりの頃はあんまりよくなかったわけでしょ。
――“木偶の坊”って言われてましたね(笑)。
越中詩郎 そういうレスラーといい試合をして、世界のスーパースターに育てちゃうんだから、そりゃすごいですよ。あとすごいなと思ったのは、たけしプロレス軍団が来て、暴動が起きたときですよ。
――ビートたけしさんが、たけしプロレス軍団を率いて登場した87年12・27両国国技館の『イヤー・エンド・イン・国技館』ですね。
越中詩郎 暴動が起きて客席に火をつけられて国技館が使用禁止になって、新日本がひっくり返ってもおかしくないくらいの騒ぎじゃないですか。でも、猪木さんは平気な顔をしてましたよ。「おう、いいんだ」って。“いい試合”はいつでもできる自信があるから、毎回毎回お客を100パーセント満足させて返すんじゃなく、時には大騒ぎになってもいいんだ、みたいなね。
――それが話題となり、次につながればいいという考えですね。
越中詩郎 でも、普通は暴動になるくらい怒らせたらファンは離れていくもんだけど、次のビッグマッチでもべつにその影響はないわけだから、そこがすごいですよ。ボクはもう45年プロレスをやってますけど、そういう人は猪木さん以外にいませんよね。
――何度、猪木さんに裏切られてもまた魅了されて戻ってきちゃうんですよね。
越中詩郎 猪木さんの感性っていうのはすごいものがありますよ。目先を見ているんじゃなく、ちゃんと先を見通して、これをやっておけば客が入るみたいな。どこを見ればそういうふうになるのか、俺なんかじゃわからないけど。その辺の猪木さんの感性を学んだのが長州さんだと思いますね。
取材・文/堀江ガンツ
越中詩郎プロフィール
1958年9月4日、東京都生まれ。78年に全日本プロレスに入門。83年に「ルー・テーズ杯争奪リーグ戦」に優勝し、翌年メキシコに遠征しサムライ・シローの名で人気を獲得した。85年に新日本プロレス参加を表明し、86年にはIWGPジュニアヘビー級王座を獲得。髙田延彦らと名勝負を繰り広げる。平成以後は反選手会同盟を結成し、平成維新軍へと発展させトップレスラーとて活躍した。