『怪物に出会った日―』著者・森合正範氏、井上尚弥のすごさを伝えきれないもどかしさ
ブブカがゲキ推しする“読んでほしい本”、その著者にインタビューする当企画。第61回は、『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』を上梓した森合正範氏が登場。モンスターと戦い、そして敗れた者たちにとって、井上尚弥とはどのような存在なのか。敗者から本音を聞き出し、彼らの物語を描いた著者に聞く、 井上尚弥と闘うということ――。
「伝えられない」強さ
――本書は、記者である森合さんが、進化する井上尚弥選手の試合記事を、「伝えられない」という葛藤をきっかけに始まったと、プロローグで告白されています。
森合正範 強すぎるんですよね。相手が強い選手であっても、尚弥選手が圧倒してしまうため、読者は対戦相手のことをまるで噛ませ犬のように受け取ってしまいかねない。特に、バンタム級に階級を上げて臨んだ、WBA世界バンタム級タイトルマッチのジェイミー・マクドネル戦と、その防衛戦であるファン・カルロス・パヤノ戦は、どちらも1ラウンドで勝利を収めます。そのすごさを伝えきれないというもどかしさがありました。記者として、尚弥選手の試合は恐怖心みたいなのが絶えずあったんですね。
――試合を整理できず、何をどう伝えていいか分からないまま、「逃げ出すかのようにありきたりの言葉を並べて原稿の送信ボタンを押した」とあります。
森合正範 仕事でいえば、明らかな「負け」です。いつも会場を後にするとき、とても嫌な気持ちになりました(苦笑)。表現できないというよりも、本質的なものを分かっていないのではないかというもどかしさ。
――そうした中で、当時『現代ビジネス』編集長だった阪上大葉さんから、「井上と対戦した選手たちに話を聞いていったらどうか?」という提案を受けます。森合さん自身も、井上尚弥という怪物と出会ったことで、本書の旅が始まります。
森合正範 悩みました。対戦した人たちは、尚弥選手に負けた人たちです。しかも、中にはKO負けした人もいれば、人生を背負って負けた人もいる。私はボクシングが大好きでしたから、学生時代は後楽園ホールでアルバイトをしていたくらい。負けた選手の控室に行って、敗者のグローブを回収するといったこともしていました。記者になってからも、負けた直後の選手のコメント取りをしていた。本当にお通夜のような雰囲気なんですね。そうした経験を持つ人たちに、井上戦を振り返ってもらいながら詳細を聞く……しかも、敗因や足りなかったことを聞くのではなく、井上尚弥のどこが強かったのか、すごかったのかを聞いていかなければいけない。もしかしたら、その人をだしにしてしまうかもしれないという不安がありました。ですから、本を出した今も、この方法が正しかったのか分からないところがあるんです。
――しかし、井上選手プロデビュー3戦目の相手である佐野友樹さんは「僕の話を聞いてくれてありがとうございました」と何度も口にしています。
森合正範 佐野さんは、最初に話を伺った方でした。彼からその言葉を聞いて、取材を続けてもいいのではないかと思えました。実際に、尚弥選手と戦った経験を持つボクサーたちに話を聞いていくと、たとえば佐野さんの口からは、「右にパンチをもらったのに、左目まで見えなくなった」、佐野さんの次に取材した河野公平さんからは、「彼(井上尚弥)の試合を見ると、殴られたところがうずくのではなく痛いんです」といった、読者が驚くようなエピソードがたくさん語られます。そういった表現は、自分の中にはまったくない言葉でしたから、とても新鮮だった。と同時に、戦った人たちのすごみや思いを自分が残さないといけないという使命感みたいなのも覚えるようになりました。尚弥選手について書くんだけど、戦って敗れた人たちを章の主人公として描く。彼らの生い立ちから始まって、どういった思いで井上戦を迎えたのか――読者にフォーマットを知ってもらうという意味でも、佐野さんの取材は大きかったです。
――第一章の佐野さんに始まり、第二章の田口良一さん、第三章のアドリアン・エルナンデス、第四章のオマール・ナルバエスという具合に、井上選手のプレゼンスが大きくなって、浮き彫りになる構成も面白いです。
森合正範 最後まで読み切ってほしいという思いがありましたから、単に負けた人のインタビューが並んでいるのではなく、全体を通して読んでいくと、井上尚弥の大きくなっていく過程が分かるという構成にしたかった。その上で、一人一人にテーマを設けようと。佐野さんであれば、網膜裂孔という病気を抱え、引退を視野に入れていたこと。エルナンデスは、敗戦を機に自暴自棄になってしまった姿、 ナルバエスは井上尚弥の最大の理解者というように。そうした横軸とも言えるボクサーたちの思いと、井上尚弥という存在が大きくなっていく縦軸を意識しました。
――たしかに、第一章に登場する佐野さんの奥さんと、第八章に登場する河野公平さんの奥さんとでは、井上戦に対するリアクションがまったく異なります。
森合正範 佐野さんの奥さんは井上戦を勧めるけど、河野さんの奥さんは、「井上君だけはやめて!」と河野さんに懇願する。プロ3戦目とプロ12戦目では、井上尚弥に対する印象がまるで変わっているんですよね。また、エルナンデスとナルバエスのときは、海外に「イノウエナオヤ」の名前が伝わっておらず、対戦が決まってから初めてビデオを見て、存在を知る。一方、第七章のダビド・カルモナは、「イノウエナオヤを目指して、対戦の一年前から対策を講じていた」ことが明かされます。読み進めると、井上尚弥という存在がどんどん大きくなり、周囲に与える影響も大きくなっていることが分かります。
――印象的だったのが、井上戦をまだ消化できていない選手もいることです。特に、エルナンデスの懺悔にも似た告白は悲哀すらともないます。
森合正範 実は、私もエルナンデスが自暴自棄ともいえる生活を送っているとは知らなくて。いざ取材を始めようと思うと、空気がものすごく重かった(苦笑)。井上戦について話すのは初めてらしく、私に対してなのか、インタビューに対してなのか、警戒心があった。ゆっくりと彼の生い立ちから話してもらう中で、徐々に心を開いてくれたのか饒舌になってきて。取材をしたのが2022年ですから、井上戦からは8年も経っている。でも、消化できていない。その姿を見て、どれだけ傷を負ったんだろうと計り知れないものを感じました。
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取材・文=我妻弘崇
森合正範=もりあい まさのり|1972年、神奈川県横浜市生まれ。東京新聞運動部記者。大学時代に東京・後楽園ホールでアルバイトをし、ボクシングをはじめとした格闘技を間近で見る。2000年に中日新聞社入社。雑誌やインターネットサイトへの寄稿も多く、「週刊プレイボーイ」誌上では試合前に井上尚弥選手へのインタビューを行う。著書に『力石徹のモデルになった男 天才空手家山崎照朝』(東京新聞)。
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vol.04 工藤唯愛(僕が見たかった青空)
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スペシャル野球座談会「阿部慎之助監督で“盟主”復活となるのか!?」
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LITTLE×R-指定
「踏みたりないふたり」前編
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【BUBKAレポート】
・Book Return
第61回 森合正範
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