吉田豪「What’s 豪ing on」Vol.7 ILL-BOSSTINO(THA BLUE HERB)、届ける努力を惜しまなければきっと届く
吉田豪によるミュージシャンインタビュー連載。第七回のゲストは、ILL-BOSSTINO。THA BLUE HERBのMCとして、札幌から全国に音と言葉を届ける彼に半生、そして変化と不変の中で考えていることを語ってもらった。
ドロップアウトからの気付き
――初めまして!『BUBKA』にはヒップホップのページがあるのに、なぜこっちのミュージシャン枠に入れたのかって感じなんですけど、いろいろ聞かせていただきます!
ILL-BOSSTINO いいんじゃないですか? ヒップホップのページに出ても言うこと同じだし。
――よく言ってますね、THA BLUE HERBはロックのほうが最初に認めてくれたとか。
ILL-BOSSTINO 今思えば最初はそうでしたね。その当時のヒップホップ側の人にもいろんな言い分あると思うけど、僕から見た景色としては、僕らのやってるヒップホップが当時の東京とかそういう主流の人たちにはきっと理解できなかったんだと思います。迎えてくれた人もいたけれどやはり多くはなかった。そういう人たちがやってきたもの、作ってきたものをある種否定して新しいものを提示するっていう立場だったから、彼らは守勢だったんで、それをおもしろいと思って受け入れる度量がっていう意味ではそんな簡単なことではないなと思うんです。そのぶんパンクとかそっち系の人たちにとってはまさにっていう感覚なんで。
――素直におもしろがってもらえた、と。
ILL-BOSSTINO はい、そういうことになったのかなって僕は思いますけど、でもまあ向こうの人たちには向こうの言い分があると思うんで。
――ちなみに、ボクもBOSSさんと世代が近いからバックボーンが似てるんですよね。1学年上の70年生まれなんで、やっぱりラフィンノーズ(注:81年結成。インディーズで人気を確立したのち、85年にアルバム『LAUGHIN’ NOSE』でメジャー進出。91年の解散、95年のインディーズから再始動を経て現在も精力的に活動中)、SION(注:60年生まれ。85年に自主制作アルバム『新宿の片隅で』をリリースし、翌年に『SION』でメジャーデビュー。『私立探偵 濱マイク』や『龍馬伝』などのドラマにも出演している)直撃世代なんです。
ILL-BOSSTINO いまの若い人みたいに小中学校の頃からヒップホップ、ラップが周りにあった環境じゃなかったですからね。『ダンス甲子園』(注:バラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(85~96年)の数ある企画の中のひとつ。正式名称は「高校生制服対抗ダンス甲子園」。90年代はじめにブームを巻き起こし、LL BROTHERSをはじめとするダンサーやタレントを輩出した)からヒップホップを知ったぐらいで。
――わかります。あの頃、悪そうな音楽といったらパンクとかそっちになりますからね。
ILL-BOSSTINO だから最初はバンドでしたね。
――ただ、THA BLUE HERBを名乗ってるのにTHE BLUE HEARTS(注:85年結成、87年メジャーデビュー。『リンダリンダ』『人にやさしく』など今なお愛される楽曲が多数。95年の解散後は、甲本ヒロトと真島昌利が中心となってTHE HIGH-LOWS(05年解散)、ザ・クロマニヨンズとして活動)への熱い思い入れはあんまり聞いたことがないんですよ。
ILL-BOSSTINO いや、ブルーハーツめっちゃ好きでしたよ、中学校2年かな、夕方にやってた『ミュートマJAPAN』(注:80年代後半から00年代にテレビ神奈川で放送されていた音楽番組『ミュージックトマトJAPAN』。国内アーティストのビデオクリップ(MV)を流すという、当時としては新しい形式の番組だった)で『少年の詩』の映像を観たときの衝撃はいまでも覚えてますね。(甲本)ヒロトのブチ切れた動きとか。
――あれは革命的でしたよね。
ILL-BOSSTINO そうですね、ホント。BOΦWY(注:81年結成。82年に1stアルバム『MORAL』でメジャーデビュー。人気絶頂時の87年に解散宣言をし、翌年東京ドームで「LAST GIGS」を2日間開催した)とかRED WARRIORS(注:85年に元レベッカのギタリスト木暮武彦と、田所豊(DIAMOND☆YUKAI)を中心に結成。89年の解散後、再結成と活動休止を繰り返し、昨年22年にデビュー35周記念コンサートを行った)とかも好きだったんで、メイクも含めて、ちゃんと作って見せる音楽だったから。でもブルーハーツに関しては、全部削ぎ落とした感じが衝撃的でカッコよかったですね。ホントに好きでしたよ。
――音楽以外でも影響されました?
ILL-BOSSTINO そうですね。DIYということに関して言えば中学校高校のときはよくわかんなかったですね、ラフィンがメジャーから出そうが、ブルーハーツがそうじゃないところでやってようが、僕は函館の田舎だったんでそこまでの明確な違いまでは。純粋に音楽として聴いてただけで。でも札幌に出てからSLANG(注:88年にボーカルのKOを中心に札幌で結成。「SAPPORO CITY HARDCORE」を掲げ、ライブハウスやレーベル運営を行っている)を見て、自分でやるってことを少しずつ理解し始めたかなって。
――THA BLUE HERBは、ハードコアパンクのストイックさとSIONの叙情性があるヒップホップというイメージなんですよね。
ILL-BOSSTINO めちゃめちゃSIONに影響を受けてるし、ハードコアのそういうところにも影響されてはいると思います。中学校のときに聴いてたSIONって『新宿の片隅で』とかだったんで、THA BLUE HERBの最初の頃にも近いというか。それでヒップホップを知ってからSIONはしばらく聴いてなくて。30歳ぐらいになって聴いたとき、SIONが『ありがてぇ』とか歌うフェイズに入っているのにまたヤラれて、僕も大きく影響を受けましたね。昔あれだけ尖ってたSIONでもいま女の人の気持ちとか、ふつうの生活で見える景色を歌うのもありなんだなというか、そこを知って僕自身もすごい変わっていったというか、それはホントに大きく影響されましたね。これだったら自分も長く続けられると思って。
――そして、ヒップホップとの出会いは『ダンス甲子園』だと隠さないのもいいですね。
ILL-BOSSTINO あと『CLUB DADA』(注:89~92年にテレビ朝日系列で放送されていたダンス番組(放送初期は『DADA L.M.D』)。ホンジャマカの恵俊彰とRIKACOが司会をしていた)ですね、そのふたつの番組が函館の田舎にいる僕にはとてもカッコよくてオシャレで、何も知らない外の世界っていうのを象徴してましたね。
――ZOO(注:89年に『DADA』がきっかけとなり結成。91年の『Choo Choo TRAIN』がミリオンセラーを記録。LDHの創業者であるHIROが所属していた。95年に解散)のダンス番組、『DADA』!ボクは『ダンス甲子園』は、山本太郎とかいまきた加藤で笑ってただけでしたけど。
ILL-BOSSTINO 僕もそうでしたよ。『ダンス甲子園』に関しては紙一重というか、ほとんど笑いという感じはあったけど、入口としては。
――もともと音楽をやりたい人ではあった?
ILL-BOSSTINO 高校のときもラフィンのカヴァーバンドとかやってましたけどね。なんかやりたいなって漠然とあったけど、楽器も弾けないし、ちょうど大学進学で函館から札幌に出て行く局面だったし、べつに強固なメンバーがいたわけでもないし。だけど、ヒップホップって大きく徒党を組んでとかグループ作ってっていう感じよりは個人でもできるものなんで、そこは合ってたかもしれないですね。
――トラックメーカーがいれば成立する。
ILL-BOSSTINO 成立しますね、それだけで世界を変えられるっちゅうか。
――ものすごい素朴な疑問なんですけど、高校を休学した理由はなんだったんですか?
ILL-BOSSTINO やめようと思ってたんですね、ふつうにドロップアウトして。高校1年の時点でもうぜんぜんおもしろくなくて。入学して1週間ぐらいで超どデカい停学を食らって。高校1年の5月10日の母の日に初めて警察に捕まって。朝、お巡りが母親を起こして俺が連れられて帰ってくるという感じで。
――けっこうな大ごとじゃないですか!
ILL-BOSSTINO そうなんですよ。で、その朝寝て、夕方に起きてきて居間でテレビ点けたら、そのときちょうどSIONが広島でやったライブの映像が流れてて、そこで『コンクリート・リバー』を歌ってたのが僕にとっての最初のSIONだったんですよ。
――そんなタイミングでの出会い!
ILL-BOSSTINO 忘れられませんね。そこで「いつか流れに乗れるさ今コンクリート・リバー足をとられても」っていう歌詞に貫かれて、ずっとその歌詞を信じて。そんなこんなで高校1年でうまく学校に順応できなくて、ふつうにやめようかなと思ったときに、僕の母親が「やめないで休学にしときな」って言ってくれて、それで休学になって。だから母親のアドバイスがよかったかなって感じで。
――高校の時点でドロップアウトしてたら、おそらく人生が変わってましたよね。
ILL-BOSSTINO 間違いなく変わってます、ここにも絶対いなかったんで。だから高校を1年間休学して、外の世界って楽しそうだなと思うんだけど、外の世界ってめっちゃ厳しいじゃないですか、高校なんかよりも。
――中卒で働いてみたらわかりますよね。
ILL-BOSSTINO そうなんですよ。結局、泥だらけで道路工事とかしてる横を自分と同じ高校のヤツらがカップルで歩いてたりするような状況で。とはいえ、高校生では手に入れることができないお金もバイクも手にしたから自由な雰囲気も味わってはいたんだけど、でもやっぱり1年経ったときに復学しようかなと思って、ダブりというかたちで。留年するとかダブることって俺も嫌だったんだけど、そこしか道がなかったから。で、意外とその1コ下にも友達がたくさんできて、高校楽しくて。だからそういう意味では戻ってよかったです、外で経験したこともたくさんあったし。
――ちゃんと大学にも進学して。
ILL-BOSSTINO 一応。大学も行ったはいいけど、「仕送りはいらない、全部俺がやるから」って言って奨学金をもらって行ったんで。
――奨学金、返済キツくなかったですか?
ILL-BOSSTINO キツかったですね。でも、迷惑かけたから大学は自分でなんとかするって、家賃ぐらいは出してもらったかなって感じ。だから、すぐすすきので働かざるを得なくて。
――それで水商売の道に入って。
ILL-BOSSTINO そうなんですよ。そこでいろんなものを知っていくなかで、大学なんてなんにも価値を感じなくなって。だからずっと何も定まってない状態でしたね。大学も一応入ったけど、4年間やりたいものを探す猶予をもらったというか、それくらいしかなくて。でもギリギリ大学にいるあいだにヒップホップを知って、DIYでやることも知ったので。
――仕事には馴染めてたんですか?
ILL-BOSSTINO ずっとドレッドだったんで、ドレッドでできる仕事を探してるようなノリで、結局できるのはカフェバーとかキャバクラのウェイターとかそういうものしかなかったっすね。
――その経験がちゃんと歌詞になって。
ILL-BOSSTINO 「どんな仕事も最後クビ」なんて歌い回しから始める曲を人前で歌って聴いてもらえるなんてヒップホップぐらいだよなってホント思いますよ。僕に限らず、僕なんかよりもっとハードなところから出てきた人も含めて、ヒップホップというのはそういう意味じゃとてもおもしろいカルチャーだなと思います。
――まだまだ続くインタビューの続きは発売中の「BUBKA8月号」で!
取材・文/吉田豪
ILL-BOSSTINO|北海道生まれ。97年に札幌で結成したTHA BLUE HERB(トラックメイカー:O.N.O、ライブDJ:DJ DYE)のラッパー。98年の1stアルバム『STILLING,STILL DREAMING』をリリース。2015年からはtha BOSS名義でのソロ音源を発表し、23年4月に2ndアルバム『IN THE NAME OF HIPHOP II』をリリースした。
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