Snow Man「ミッドナイト・トレンディ」も手掛ける作編曲家きなみうみの生い立ちに迫る
楽曲派という言葉が死語になる前に伝えることがある!ということで始まった当連載。今回は、青森の田舎から上京し、今では実力派の若手作家として注目を集める、きなみうみが登場。波に乗る彼に、意外な生い立ちから、この若さで掴んだ作家としてのオリジナリティについて聞いた。
ヤマタツの影響
――正直に言いますと、きなみさんがめちゃくちゃお若いことに驚きました。
きなみうみ そうですね、若さだけは(笑)。
――今の音楽性に至った経緯も知りたいので、まずは音楽を始めたところからうかがっていいですか?
きなみうみ 小6でギターを始めて、メタルとかハードロックから入りました。最初は友達とメタルのコピバンみたいなのをやって。
――今に通じるようなファンキーな音楽ではなかった。
きなみうみ 当時から、今の事務所の一番の大先輩である山下達郎さんとかも聴いていたんですけど、あくまで聴くだけで、自分がやりたいのはロックだ、速弾きかっこいい! という感じでした。その後、大人と一緒にやることになって。
――大人とバンドを組んだ?
きなみうみ はい。地元が青森の田舎なので、そもそも若い人がいないというのもあって(笑)。東京でプロのミュージシャンをやってきて、事情があって帰ってきたような人たちと一緒にやれたんです。すごい曲作るね、きなみくんギターボーカルでバンドやらない? と声をかけてもらいました。それが16歳くらいのことで、そこから音楽性もシフトチェンジしていきました。できているかどうかは別として、AORとかファンクのオリジナルを作るようになって。今思うと、自分が考えたアレンジを演奏が上手な大人の人に弾いてもらったり叩いてもらったりしていたので、作家っぽいことをしてたんだなと。
――マルチで演奏されますが、宅録をしていくなかでほかの楽器も覚えていったんですか?
きなみうみ ベース、ギターはそういう感じで、それこそ16歳のときにジャズドラマーの人に弟子入りしたんです。その人がマルチプレイヤーでポップスもめちゃめちゃ上手な人で、鍵盤をがっつりと教えてもらいました。今では鍵盤がメインだったりします。
――弟子入りされたんですね。
きなみうみ 高校を1年で中退して、早い段階で地元を出て、市内で暮らし始めました。田舎から市内に出てきて……市内も田舎ですけど(笑)、若い人は全然いないけど、楽しんで音楽をやっている大人が多いんですよね。
――AORやブラックミュージックに惹かれたのはどうしてだったのでしょう。
きなみうみ 青森の大先輩にはSING LIKE TALKINGがいるので、幼少期から聴いていたんですけど、音楽を少しずつ学んでいくと、なんかすごいんじゃないかと思い始めて。それで達郎さんに辿り着いて、何かほかにそういうのないかなと興味を持ち始めたら80年代のアイドルにいって、それの元ネタを辿って洋楽に移行して。そうしたら、もともとメタルのバンドとして好きだったTOTOが、じつは全然そういうバンドじゃなかったことに気づいたんです。そこからスティーリー・ダンにいったり、ラリー・カールトンみたいなインストのフュージョンっぽいものにいくという流れでした。
――しかし10代半ばの趣味らしからぬと言いますか。
きなみうみ 田舎すぎて流行りものが本当に入ってこないし、大人たちの話に影響されていくんですよね。それがよかったのかなとも思います。
シンガーから作家へ
――そして修行期間を経て、東京に出てくることになるんですか。
きなみうみ 18歳の頃、所持金5万円くらいと楽器だけ持って吉祥寺に引っ越してきました。
――すごい。ゼロから繋がりを作っていったんですか?
きなみうみ 今一緒にバンドやっているメンバーは地元の先輩で。僕が上京した噂を聞きつけて、みんなも大変ななかご飯を食わせてもらったり、東京の歩き方を教えてもらったりしました。
――それがGEMINI。のみなさんなんですね。
きなみうみ そうです。今はバンドとしてやってるんですけど、当初、僕はソロでポップスを歌っていたので、自分のバックバンドとして入ってもらってました。
――もともとはシンガーとして一旗揚げようと東京に出てきたわけですよね。それがいつしか職業作家になっていくと。
きなみうみ 上京してからはレコード屋で働きながら何もない日々を過ごしていて。あるとき、知り合いに音楽事務所の方を紹介してもらったんですね。結局ご縁がなかったんですけど、すごくいい才能があるから別の人に薦めていい? となって、レーベルの人を紹介してもらいました。そこの新人枠みたいなところで面倒を見てもらってました。特に予算が出てたとかではないんですけどね。それからしばらくして、たまたまいろんなプロダクションとお話しする機会があって、そのなかのひとつが今の事務所のスマイルカンパニーだったんです。
――それはアーティストとして声をかけられた。
きなみうみ はい。でも、曲を書けるんだったら作家のほうもやってみない? という話をもらって。それで始めてみたら、いつの間にかこうなってました(笑)。
――曲を提供し始めた頃は乗り気だったんですか?
きなみうみ それが全然違って。作家はできないと思ってたので断ったんです。でも、いいからちょっとやってみてよという感じでコンペに出してみたら、たまたま通ったんですね。それで味をしめてしまって。
――コンペでいきなり通ったのはすごいですね。
きなみうみ でも、それが地獄の始まりでした(笑)。そこから1~2年は作家の仕事が全然なくて。六本木でハコバンをしたり、個人でやっているような人から安い仕事を請けたりしてたんですけど、全然食えるレベルにはなれなくて。家賃も払えず、電気ガス水道が3カ月使えないとかもざらでしたよ。公園の水でシャワー浴びるとか。
――超ギリギリじゃないですか! アルバイトは音楽絡みではあったんですね。
きなみうみ ほかのバイトが続けられなかったんです。仕事中も頭で曲を作って、目を盗んでボイスメモを録ったり、レシートの裏に歌詞を書いたりしていたくらい、ずっと心ここにあらずな状態で。だから音楽の仕事じゃないと無理だったんですよね。
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取材・文/南波一海
きなみうみ|1999年生まれ、青森県出身。作編曲家として活動する傍ら、自身のアーティスト活動やサポートミュージシャンとしても精力的に活動している。
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