吉田豪インタビュー、TOSHI-LOW 90年代、あの刹那の先にある今
吉田豪がTOSHI-LOWにインタビューを実施。BRAHMANをはじめとするバンド活動で生き様としてきたパンクの精神、その出会いから現在に至るまでの変化を語った。
パンク・ロック最後の扉
――実は初対面じゃないんですよ。
TOSHI‐LOW ……うそっ!? いつ?
――20年ぐらい前、たぶん媒体は『Gb』(注1)だったと思うんですけど、BRAHMANのМVとか作っているタナカノリユキさんとの対談をボクが仕切ったことがあったんです。
TOSHI‐LOW あ、あったかも!
――検索したけどネット上に情報は何も残ってなくて。そのとき、おっぱいパブの話ですごい盛り上がったのに、後から「これは使わないでね」って言われたのが印象的
でした。
TOSHI‐LOW じゃあ使えないじゃない!
――ダハハハハ! いや、その頃と比べたら相当オープンな人になったんだろうなって。
TOSHI‐LOW フフフ、だいぶね。
――おっぱいパブはまだ使えないですか?
TOSHI‐LOW いいよ。昔話でしょ?
――いまも行ってるならアレですけどね。
TOSHI‐LOW いや、50歳近くになっておっぱいパブには行かないっしょ(笑)。
――ダハハハハ! 正直、当時はガードが固い印象だったのが、どんどん柔軟になったというか、いろんな人からエピソードとして出てくる話がどうかしてることばかりになってるじゃないですか。だから、いまはかなり信用できるタイプだと思うようになってます。
TOSHI‐LOW えーっ? いや、吉田豪が俺のことあんまり好きじゃないと思ってて。
――ダハハハハ! そんなことないです!
TOSHI‐LOW あんまり好きなタイプのミュージシャンじゃないってすごい思ってて。「仕事としてはインタビューはやるけど、俺の好きな毛色じゃねえな」っていう。……なんで俺にオファー来たの? ネタないから?
――そんなことないですよ!
TOSHI‐LOW 俺たちのこと絶対に嫌い! 「90年代のメロコア(注2)で売れたヤツなんて嫌い!」って言ってそうって、マネージャーに言ったんだもん、「断ってほしい」って。
――違いますよ! そもそもボクはメロコア直撃世代で、SNUFF(注3)初来日にも行ってて。
TOSHI‐LOW 俺も行った、浅草?
――いや、その前に新宿アンチノック(注4)があったんですよ。鉄アレイ(注5)やACID(注6)と対バンで。
TOSHI‐LOW あ、アンチ行った! 俺チラシだけ配りに行ったわ、中に入れなくて。
――LEATHERFACE(注7)初来日にも行ったりとかメロコア黎明期にはハマってたけど、ただ根っこはもっとハードコアなので、いわゆる『AIR JAM』(注8)的なメロコアバブルに複雑な感情を抱きながら見ていたのは確かに事実です。
TOSHI‐LOW ね、あるよね。
――ただ、そこから実力とか腕力とか人間力でハードコアな先輩たちとかボクみたいな人間にも認めさせてきた人だと思ってますよ。
TOSHI‐LOW だって難しかったもん。90年代前半から後半にかけて、いわゆるインディーズとかDIYっていう考えがあるから、何やっても文句を言われるし。「あそこの流通を使ったからおまえらはメジャーだ」とか、「誰々とライブやったからもうやらん」とか、ウンザリしたよ。好きなバンドはそこにいっぱいいるけど、たいへんだったなあ……。ただ、たいへんだけど楽しかったし、見るもの見るものが新しかったし、音楽的にも自分たちで作り上げていくっていう意思を持ってる人たちがけっこういっぱいいたというか。
――だからNUKEY PIKES(注9)とかSiC(注10)とかボクも大好きだったので、ようやく自分が初めて体験できるリアルタイムなパンクのムーヴメントが来たなって感じていたんですよ。
TOSHI‐LOW うん、だから当時、『NEO HARDCORE TAIL』(注1)のあたりはホントに俺、NUKEY PIKESになりたいぐらいに思ってたから。いまでも1個だけ選べって言われたらNUKEYPIKESだね。すごい好き。
――だから嫌いなわけはないんですよ。
TOSHI‐LOW いや、ちょっとは「おまえら認めないよ」みたいな感はあったでしょ?
――ハードコアの先輩方がちょっと面倒だった感じ、「おまえらどこまでのもんだ?」みたいな値踏みはたぶんあったと思います。
TOSHI‐LOW あったでしょ? その品定め感はあるなと思ってね。慣れてるから。
――それを味わってきてるわけですよね。
TOSHI‐LOW 味わってきてるんですよ、思いきり。あの世代のなかでは一番下っ端のほうだから、どこ行ってもちょっとみそっかす扱いだったし、ただそのおかげで自由にやれたっていうのもあって。もうちょっと上に入るともうちょっと型にハマッたパンクをやらなきゃいけなかったり、何かのジャンルに属さなきゃいけなくなってしまうところからは弾かれてよかったなとは思うけどね。
――基本はGAUZE(注12)とかが好きな人なわけじゃないですか。それがいわゆるメロコアなシーンにいて、どういう心境だったんですか?
TOSHI‐LOW 実はハードコアにハマったのは一番最後で、初期パンから入って。地元が水戸で、とにかくヤンキーになりたくないから。ちょっと上の世代はヤンキーとバンドができたんだけど、なぜか暴走族の人たちはヴィジュアル系なの。これは嫌だなと思ったらパンクの同級生たちがわらわら、県内からドロップアウトしたのがLIGHTHOUSEってライブハウスに何十人も集まってて。これなら暴走族とケンカできんじゃんって。
――それなんですよね、発端は。暴走族とパンチ合戦したっていうのもそこでの出来事。
TOSHI‐LOW そうそう。年末暴走のとき暴走族にションベンしてこいって言われて、歩道橋の上からションベンする係やったり。
――それ、トラブルに発展しないんですか?
TOSHI‐LOW するする! すぐ戻ってくるもん。「誰だー!!」って言って。あと、ライブやってても「誰の許可でおまえらやってんだよ!」ってヤクザとかも入ってきてたから。でも、そういうおかげで自分たちで仕切るっていう感覚は子供のときからあったね。
――ライブハウスにチンピラが入ってきて。
TOSHI‐LOW 入ってきて。そのとき俺、高1でパンチパーマの相手とかまだ慣れてないから、うわ怖え!とか思ってたら、高3の先輩がガッと間に入ってきて、「俺らライブやってるだけだから帰ってくれ」って言って。でも、あっちはなんとかしてお金を巻き上げたいから、それでバコーンとかぶん殴られても「帰れ」って言ってその人たちを追い出したのを見て感動してしまって。俺らもこうやって自分たちの場を守っていかなきゃダメなんだなと思って。その頃はぜんぜん初期パンクで、そのあとにその高3の先輩たちが東京スカンクス(注13)を呼ぶの。そしたらスカンクスで会場パンパンになって、その次の日からみんなもうサイコ刈り(注14)(笑)。それで高2ぐらいにはOperation Ivy(注15)とかSNUFFとかっていうのが入ってくるので。
――ちょうど90年ぐらいですね。
TOSHI‐LOW 俺は頑なにそこ行かないでB級パンクっていうか初期パンの7インチずっと聴いてて、でも東京行ったらちょっとミクスチャーやりてえな、みたいな。だから、だいぶ後にハードコアなの。で、アンチノックでやりだして、『BURNING SPIRITS』(注16)に呼ばれたりで、だんだんハードコアのカッコよさに気づいていって、それが一番最後。でも、初めて行ったアンチノックがひどすぎて。昔、アンチにスタジオがあったんだけどモヒカンみたいな人がずっとこっち見て、注射打ってるし、見えてるし(笑)。
――水戸とはちょっと違う文化が(笑)。
TOSHI‐LOW 水戸にそういう人はあんまりいなかったから、これ都会だなって。スカンクス観に来たときも高校生でキセルしてアンチノックでMAD MONGOLS(注17)と対バンで。そしたらMAD MONGOLSが他のサイコビリーに絡まれてて。「おいTシャツくれよ」「売りもんなんで」「いいからくれよ!」って、すげえとこ来たなって(笑)。でもアンチノックが好きで、東京に行ったらアンチノックしかないと思ってた。アンチノックと20000V(注18)しか知らなかったから。
――ボクも当時、ミニコミの写真展のビラ貼りにアンチノック行ったら受付にMASAMI(注19)さんがいて、すごいフランクにガムテープ貸してくれて、でも階段に貼って戻ったら地獄絵図で、いろんな人にスタンガン撃ってて。ボクもガムテープ投げつけられたけど、それだけで済んでよかったなって(笑)。
TOSHI‐LOW ハハハハハ! いいなあ、あんなレジェンドを見られて。あの頃はライブ観てるだけなのに公園のベンチみたいなのが飛んできたり、監禁ギグがあったりでね。ストイックの行き先
――ちなみにパンクを始める前から腕っぷしのほうはなかなかな感じだったんですか?
TOSHI‐LOW いや、中の下ぐらいだったね。ちょっと茨城のレベルが高すぎて。
――ダハハハハ! 高いんですか(笑)。
TOSHI‐LOW めっちゃ高かった(笑)。いまだに嫌だなと思うもん、先輩とか来ると「お!?」ってなる。まだ中の下かっていう。
――それが、身体を鍛えて格闘技も始めて、いろいろ変わっていく感じなんですか?
TOSHI‐LOW 身体は強いほうだったんで。でも、ケンカしたいとかじゃなかったし、降りかかる火の粉をどうやって弾くのが一番いいんだろうって。どっちかっちゅうと護身術みたいなのに興味があって、ケンカをうまくやりたいってタイプだったから。
――要は暴走族にションベンかけるノリは卒業して、自分からケンカしなくなっていく。
TOSHI‐LOW あれも先輩に「やれ」って言われたからやってるだけで。自分たちで張ってくしかないから、「それでビビッてんの?」って言われたくなくてやる。でも、やりたかったかっていったら、そんなにしたかったわけじゃないんだろうなと思う。
――でも、いまは拳で会話している人ぐらいのイメージになってますよ(笑)。
TOSHI‐LOW ね(笑)。でも、いざというときに身体が強いと楽は楽だよ。あと、人としゃべってて2〜3発殴られてもいいやって思いながら先輩とかにツッコんだりすると早めに仲良くなれる気がする。失礼はもちろんしたくないけど、でもずっとつまんねえ話してたら仲良くなれないから。
――「先輩、昔から大ファンです!」ぐらいだと距離は詰められないってことですね。
TOSHI‐LOW そうそう。やっぱりハッとすることがなんかないと。俺はそういうのが得意というか。そこで揉めごともたまにはあるし、SION(注20)にぶっ飛ばされたりとかも。
――そんなことあったんですか! だって、ふつうにSIONのファンなんですよね?
TOSHI‐LOW 大ファン! 震災のときに雷矢(注21)の(鈴木)康夫が「SIONさんを宮古に呼びたくて説得してるんだけど、うんって言ってくんないから来てくれ」って言われて。そのとき5歳の子供と映画観てて、まだ津波からひと月後ぐらいかな。俺、SIONの25周年の(SHIBUYA‐)AXに実はゲストで呼ばれてて。
――TOSHI‐LOWさんがSIONの衣装を借りてSIONメイクで『俺の声』を歌ったとき。
TOSHI‐LOW そう、その1週間ぐらい前に、「TOSHI‐LOW、いま居酒屋いるからこっち来てSIONさん説得してくれ」って言われて、嫌だよと思ったんだけど、とりあえず行って。SIONとは何回か飲んだし、大好きな趣旨は伝えてて。でも、たまにSIONがふさぎ込むタームというか、あんな大震災があって、「俺みてえのじゃなんにもできねえから」「俺の歌なんて聴きたいヤツもいねえし」みたいな、すげえ卑屈なモードに入っちゃってて。それ聞いてたらだんだん腹立ってきちゃって。「おいジジイ、コノヤロー!」って言っちゃって(笑)。
――ダハハハハ! そこで踏み込む(笑)。
TOSHI‐LOW 「ジジイ、俺はおまえの歌を聴いてここまで生きてきたのに、なんでこういうときみんなを頑張らせる歌を歌ってくんねえんだよ! 『がんばれ がんばれ』とか言ってるくせに嘘つき! クソジジイ!」って言ったらSIONが怒っちゃって、「てめえ誰に言ってんだ!」って。あの人、小児麻痺で右が使えないから左で俺の髪の毛つかんで、テーブルにガンッガンッガンッてやられて。やられながら「あ、SIONが帰ってきた!」って。
――すっかり喜んじゃってた(笑)。
TOSHI‐LOW 「これこれ! たぶん大丈夫イケる!」とか思って。そしたら案の定、パッと正気になって、「ごめんな」って言って全部飲み代払ってくれて、宮古でやる6月のヤツもSIONが来て。だから身体張って。
――ハードコミュニケーションですよね。
TOSHI‐LOW そう。でも帰り際にSIONが、「俺も泉谷(しげる、注22)にジジイって言ったっけなあ」って言いながら帰ってった(笑)。やっぱりガッカリしちゃうでしょ、きれいごと歌ってる人の汚い姿を見たら嫌だし。もちろんすべての歌が表現者として裏表ないとは思わないけど、そのときは「俺が好きなSIONじゃねえじゃん!」ってなっちゃって。そういうの許せないタイプで。だからフェスとかでそうじゃない裏側を見たりするとけっこうガッカリする。だから自分は初めにイメージ汚しとこうと思って、裏表ないように。
――それは積極的にやってますよね。
TOSHI‐LOW できるだけやってる。
――ボクが会った頃はまだガード堅かった時代なはずで、どこで変わったんですかね?
TOSHI‐LOW あれは説明すると、ホントに人前でやるようなバンドを長くやるなんて思ってなかった。90年代のあの一瞬の刹那のなかで生まれる新しい音楽、ハードコアとかパンクの一種として、俺たちも時代の徒花としてやってると思ってたから、初めの1〜2年はBRAHMANとしておもしろいことだけやって、どうせ1枚か2枚CD出してたぶんいなくなるだろうって思ってたから。だからドラムも全裸だったし。ふざけてるからこそ、これとこれとこれ合わせちゃおうぜって感覚もあったし。そしたら3年目ぐらいにCOKEHEAD HIPSTERS(注23)とツアー周った辺りで潮目が変わって。地方に行ったらある日、俺らCOKEHEADに連れてってもらってたはずなのに、「あれ? COKEHEADより盛り上がってる」って日があって。それでもぜんぜん信用してなかったんだけど、『AIR JAM’98』のとき、小さいステージの最後で。それもみんなどうせハイスタ(注24)観に来てんじゃんって。そしたらワーッと人が来たりして。そこから、「あれ? これちゃんとやんねえとダメなんじゃん」みたいな。
取材・文/吉田豪
TOSHI-LOWプロフィール
1974年、茨城県水戸市出身。95年に結成されたBRAHMANのボーカル。96年にミニアルバム『Grope Our Way』をリリースし、99年にシングル『deep/arrival time』をトイズファクトリーよりリリース。アコースティックバンド・OAUや、細美武士とのthe LOW-ATUSでも活動している。NPO法人「幡ヶ谷再生大学 復興再生部」代表。
記事注釈
(注1)~(注5)
(注1) ソニー・マガジンズから刊行されていた音楽雑誌。2003年休刊。
(注2) パンク・ロックのひとつのジャンルであり、中でも「ハードコア・パンク」から派生した、主にギターのメロディが印象的なジャンル。
(注3) 86年に結成されたイギリスのバンド。NOFXのファット・
マイクによるインディ・レーベルから作品をリリース。
(注4) 85年から新宿にある老舗ライブハウス。パンク、ハードコアの聖地。
(注5) 84年に結成された東京ハードコアの代表的バンド。
(注6)~(注10)
(注6) 80年代後半から90年代初頭に活動。早い段階で「クラストコア」
の要素を取り入れていた。
(注7) 88年にイギリスで結成されたUKメロディックコアの代表的バンド。
(注8) 97年にHi-STANDARDを中心に企画されたフェス。第1回はお台場レインボーステージで開催。
(注9) 89年に結成。日本のミクスチャー・ロックの先駆けとしても活躍。97年に解散し、19年にAfter The NUKESとして再始動。
(注10) 80年代後半に活動した、ハードコアやスケート・パンクをクロスオーバーさせた日米混合編成のバンド。
(注11)~(注15)
(注11) NUKEY PIKESやBEYONDSらによるイベント。
(注12) 1281年に結成。日本のハードコア・パンクの初期から活動。22年に解散
(注13) 86年に結成。ロカビリーから派生した「サイコビリー」を代表するバンド。
(注14) トップを残しサイドを刈り上げた、鋭角的なフォルムが特徴のヘアスタイル。
(注15) 87年にアメリカ・カリフォルニア州で結成。スカ・パンクの先駆者で、ランシドの前身。
(注16)~(注20)
(注16) 鉄アレイのKATSUTAと、DEATH SIDEのISHIYAを中心に88年から行われたギグ。
(注17) 91年に結成されたサイコビリー・バンド。
(注18) 高円寺にあったライブハウス。09年に火災により閉店後、翌年「東高円寺二万電圧」として名前と場所を変えて再オープン。
(注19) 57年生まれ。80年代前半からGHOULやTHE TRASHなどのバンドで活動。92年死去。その人生は『右手を失くしたカリスマMASAMI伝 ISHIYA私観 ジャパニーズ・ハードコア30年史番外編』に詳しい。
(注20) 60年生まれのシンガーソングライター。代表曲は『ありがてぇ』『がんばれがんばれ』など。
(注21)~(注25)
(注21) 93年に結成されたオイ!/スキンズシーンで活躍してきたバンド。
(注22) 48年生まれのシンガーソングライター。72年に代表曲『春夏秋冬』をリリース。
(注23) 91年に結成。レゲエやラップなどをミクスチャーしたハードコア・スタイルで人気を博した。99年に解散し、07年再結成、20年に活動休止。
(注24) Hi-STANDARD。91年に結成。主催イベント『AIR JAM2000』で活動休止を発表し、11年に活動再開。23年2月にドラムスの恒岡章が死去。