『玉袋筋太郎の闘魂伝承座談会』より北沢幹之のインタビューを公開!
『玉袋筋太郎の闘魂伝承座談会』が好評発売中。掲載内容の北沢幹之のインタビューより一部をお届けします。(※記事は2020年10月に収録の内容です)
「生き別れたおふくろを探すために相撲取りになろうと思って、大分から東京に出てきたんですよ」(北沢)
堀江ガンツ(以下、ガンツ) 玉さん! 今日はレジェンド中のレジェンドに来ていただきました!
玉袋筋太郎(以下、玉袋) 日本プロレスの生き証人だよ!
椎名基樹(以下、椎名) 力道山からリングス・ロシアまで。
ガンツ というわけで、本日のゲストは魁勝司こと北沢幹之さんです!
玉袋 北沢さん、今日は本当にありがとうございます!
北沢幹之(以下、北沢) こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます。師匠に会えるっていうんで、私も楽しみにしていたんですよ。
玉袋 師匠はやめてくださいよ、本当に(笑)。
北沢 後楽園(ホール)でお会いして以来ですよね。
玉袋 あっ、そうだ。藤波(辰爾)さんの興行ですよね。あのとき、マムシさん(毒蝮三太夫)と一緒に控室にも行かせてもらったんだけど、マムシさんがいちばん威張ってるんだもん(笑)。
椎名 広い業界の中ではいちばん先輩ですからね(笑)。
玉袋 85歳(当時)だからね。でも北沢さんもプロレス界で先輩といったら猪木さんぐらいなんじゃないですか?
北沢 そうですね。猪木さんだけですね。おとといグレート小鹿から珍しく電話がきたんですよ。「どうしたの? 死ぬんじゃないだろうな?」って(笑)。
玉袋 小鹿さんもまた元気なんですよ。でも北沢さんはその小鹿さんの先輩ですもんね。
椎名 それなのに北沢さんはいまだに身体が凄いですね。
北沢 いや、もうしなびちゃってダメですよ。
椎名 いやいや、胸板が普通じゃないデカさですよ(笑)。
玉袋 北沢さんがプロレスの世界に入るきっかけはなんだったんですか?
北沢 自分は小学校4年のときにおふくろと生き別れてるんですね。それで、おふくろを探すために最初は相撲取りになろうと思って。同郷の大分県出身である二代目・玉の海、先々代の片男波親方を頼って東京に出てきたんですよ。
玉袋 へえ~、そうだったんですか。
椎名 お相撲さんになって、お母さんを探そうと。
北沢 ただ、片男波親方がちょうど独立しようっていうことで揉めていた時期だったので、それで会わせてもらえなくて。だけどよその部屋には行きたくない。で、力道山先生が親方の後輩だったんですよ。
玉袋 それで日本プロレスに入ろうと。
北沢 でも最初は入れてもらえなかったんです。身体がちょっと小さかったんで。それで「大きくしてこい」ってことで、横浜のドヤ街に泊まりながら沖仲仕をやったんですよ。
玉袋 沖仲仕、出ました!
ガンツ 湾岸労働者ですね。
北沢 それで肉体労働をしながら、柔道をやったり、ボディビルのジムに通ったりしてね。それでやっと入れたんですよ。
玉袋 いや~、いきなりトップスピードだよ。まず、お母さんを探すためにお相撲さんになって、全国に顔を売ろうとしたところが凄いし。ドヤ街住まいで沖仲仕やって苦労しながら、ようやく日本プロレスに入るって、この始まりの時点で映画になるよ。
椎名 結局、お母さんには会えたんですか?
北沢 ずいぶんあとになってですけど、会えましたね。
玉袋 会えたんですか! よかった~。
北沢 プロレスに入って10年目のある日、姉から電話があったんですね。おふくろが(横浜市の)綱島にいるってことがわかったって。
椎名 綱島じゃ、野毛の新日本プロレス道場からけっこう近いですね。
ガンツ のちのリングス前田道場の最寄駅ですよ(笑)。でも当時の北沢さんは、日本プロレス時代ですもんね。
北沢 それで俺は夜中に訪ねて行ったんだけど、最初、おふくろは俺のことをわからなかったんですね。ちっちゃいときに生き別れてるんで。
玉袋 小学4年で別れて、次に会ったらプロレスラーになっているわけですもんね。
北沢 それで名前を言ったらビックリしてですね。ちょうどメキシコ遠征に行くことが決まってたんで、「メキシコに行かなきゃいけない」ってことを話したら、大きなバッグや下着なんかを揃えてくれて。ただ、そのあと53歳のときに脳溢血で亡くなったんですよ。自分は何もしてあげられないうちにね。
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「ボクも玉袋筋太郎という芸名なんで、高崎山猿吉という素晴らしいお名前をいただいた北沢さんの気持ちがわかります」(玉袋)
玉袋 それは心残りですよね。でも会いにきてくれただけで、お母さまもうれしかったと思いますよ。
北沢 だといいんですけどね。それでメキシコに行ったら、3年間は日本に帰ってこないつもりだったんですけど、猪木さんが新日本を旗揚げするっていうので、1年しないうちに戻されたんです。
椎名 猪木さんから連絡があったんですか?
北沢 メキシコまで来てくれたんですよ。
ガンツ 「日本に帰って、俺の新団体に来てくれ」と、猪木さんがわざわざメキシコまで口説きにきてくれたと。
玉袋 それぐらい猪木さんも必死ですもんね。日プロでクーデターを起こしたってことにされて、追放されたばっかりで。
椎名 ちょうど、日本プロレス末期にメキシコに行ったんですね。
北沢 そのちょっと前に藤波(辰爾)が入ってきたんですけど、もうその頃は派閥がひどくてね。
玉袋 どういった派閥に分かれてたんですか?
北沢 猪木派、馬場派、あとは吉村派で。
椎名 吉村道明さん。
ガンツ カブキさんなんかが吉村派ですよね。それが芳の里社長の幹部派でもあって。
玉袋 北沢さんが猪木派になったのは、どういう理由だったんですか?
北沢 猪木さんとは入った頃から仲がよかったし、あの人はめちゃくちゃに強かったんです。やっぱりあの強さが魅力でしたね。
玉袋 同期に馬場さんもいたわけじゃないですか。当時見ていて、練習量は猪木さんに敵う者はいないと?
北沢 ほかの連中は猪木さんを嫌がって練習しなかったんですよ。荒っぽいし、強いし。
ガンツ 練習でもガンガン行くわけですね。
玉袋 北沢さんが日プロに入って、手取り足取り教えてくれた人は誰になるんですか?
北沢 大坪(清隆=飛車角)さんと吉原(功)さんですね。あの人も強かったですね。あと長沢(秀幸)さんとか。昔の人は強かったんですよ。
ガンツ 北沢さんは日プロに入ってから、猪木さんの付き人だったんですか?
北沢 いや、入った頃は猪木さんもまだ若手だったから、俺はいろんな人に付いたんです。吉村さんにも付いたし、芳の里さんにも付きましたし。最後はトヨさんですね。
玉袋 出ました、豊登!
ガンツ だから北沢さんは豊登派でもあったわけですよね?
北沢 そうですね。付き人やっていましたから。
玉袋 豊登さんもまた破天荒な人だっていう。
北沢 もうめちゃくちゃですよ。「おい、おまえ、いまカネいくら持ってる?」って聞かれて「2000円しかないですよ」って言ったら、「いいからそれを貸せ!」って言われて(笑)。
玉袋 ひでー、若手のなけなしのカネまで持っていくというね(笑)。
椎名 「倍にして返してやる」って感じで(笑)。
北沢 だけど(博打で)勝ったときなんかは、けっこうな小遣いをくれましたよ。
玉袋 その豊登さんから、北沢さんは「高崎山猿吉」という素晴らしいお名前をいただいてるじゃないですか。ボクも師匠にいただいた「玉袋筋太郎」という芸名なんで、そりゃもう北沢さんの気持ち、上田馬之助さんの気持ち、林牛之助(ミスター林)さんの気持ち、全部わかるんですよ。
ガンツ 芸能史に残る名前と、プロレス史に残る名前で(笑)。
玉袋 北沢さんは元祖キラキラネームですから! あれはどういうきっかけで高崎山猿吉となったんですか?
北沢 自分の郷里である大分県に、高崎山というサルがいる山があるんですよ。それで付けられたんですけど。
椎名 ただ、大分県出身というだけで(笑)。
北沢 だけど親父にも「どうしてそういう名前をつけたんだ?」って聞かれて(笑)。
椎名 それは言いたくなると思います(笑)。
北沢 でもジャニー喜多川さんのお父さんと、私は古い付き合いだったんですけど、その人だけは「いい名前だな」って言ってくれて(笑)。
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