【BUBKA11月号】田村潔司、孤高の天才が振り返るUインターと新日本の因縁
9月30日に発売された「BUBKA11月号」より、注目の記事を抜粋して紹介する。
Uインターのスタイルを貫いてきた孤高の天才・田村潔司。彼がエクゼクティブディレクターを務める新団体GLEATが10・9という運命的な日に正式旗揚げとなる。プロレス、総合格闘技など数々の戦場を渡り歩いてきた彼に、プロレス界における数多の名勝負をU目線で振り返ってもらう。
前田日明イズム
――田村さんがエグゼクティブ・ディレクターを務める新団体GLEATは、純プロレス部門の「Gプロレスリング」とUWFスタイルの「LIDET UWF」という2ブランドを展開。その「LIDET UWF」が、10・9新宿FACEでついに正式旗揚げになるわけですよね。
田村 はい。ナンバーシリーズの1発目ということで。
――その1発目が「10・9」というUWFにとって因縁深い日を設定するのが、じつにGLEATらしいなと思うんですけど。田村さんは、1995年の10・9東京ドームで行われた新日本プロレスvsUWFインターナショナルの全面対抗戦を出場拒否したことについて、26年経った今、あらためてどう思っていますか?
田村 拒否したことについては、後悔も何もないんだけど。拒否しなかった自分を見てみたかったなっていうのはあるかな。
――あの時、新日本の選手と闘っていたらどうなっていたのか、と。
田村 たられば前提だけど、もし対抗戦に出ていたら、新日本の選手と作品創りが出来ただろし、新日本内でどこまでいけたかなって、勝手に想像したりする。でも拒否したことで心技体が鍛えられたし、その後、他の選手たちとは違う作品を残すこともできた。その二つは比べられないけど、対抗戦に出たときの自分を見てみたかったというのはあるね。
――ただ一人対抗戦に出なかったことで、田村さんは特別なレスラーになりましたからね。あそこで新日本とやっていたら、K-1のリングでパトリック・スミス(第2回UFC準優勝者)と素手のアルティメット(MMA)をやることもなかっただろうし。翌年、リングスに移籍することもなかったかもしれませんしね。
田村 ただ、高山(善廣)選手が新日本との対抗戦で知名度を上げて、その後、プロレスと格闘技の二刀流みたいな感じで活躍したでしょ。俺にもああいう道があったのかな、という気持ちも少しはある。まあ、若かったから、こっちの道(格闘技スタイル)以外にないと思い込んでいたからね。
――続きは発売中の「BUBKA 2021年11月号」で!
田村潔司=たむら・きよし|1969年12月17日生まれ、岡山県出身。1988年に第2次UWFに入団。翌年の鈴木実(現・みのる)戦でデビュー。その後UWFインターナショナルに移籍し。95年にはK-1のリングに上がり、パトリック・スミスと対戦。96年にはリングスに移籍し、02年にはPRIDEに参戦するなど、総合格闘技で活躍した「孤高の天才」。現在は新団体GLEATのエクゼクティブディレクターを務めている。
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