【BUBKA10月号】松永光弘、ミスター・デンジャーが語る血と汗と涙にまみれた30年目の真実
世界で最も過激なデスマッチ団体W★INGのエースとして血を流し続けた“ミスター・デンジャー”松永光弘。W★ING旗揚げから30年が経った今年、立ち上げから、崩壊に至るまでの2年7カ月を綴った単行本が発売された。炎、五寸釘、蛍光灯、数々の危険な闘いを繰り広げてきた彼が、当時の輝かしくも、儚かった日々を振り返る。
今日、俺はここから飛ぶ。誰が止めても言うことは聞かない。俺は絶対に飛ぶから
――今回、元『週刊プロレス』記者の小島和宏さんが書いた『W★ING 流れ星伝説』(双葉社)が出版されましたけど。崩壊から25年以上が経ってW★INGの本が出ると聞いたとき、どう思いました?
松永 最初、著者の小島さんから、「W★INGの本を書きたいから協力してほしい」という連絡をもらったんですよ。その時からこの本が成功するかどうかは、大宝(拓治)くんが出てくるかどうかにかかってると思いましたね。大宝くん出てこなかったら作れないですよ。
――大宝さんはリングアナウンサーで、初期からのフロントスタッフ。この本でも重要人物として20数年の沈黙を破って登場していますけど、それくらのキーパーソンですか?
松永 彼は話がわかるっていうんですかね。自分にとっても“ミスター・デンジャー”松永光弘っていうのは、大宝くんなしでは生まれなかったと思いますから。
――そうなんですか。
松永 自分が加入する前の旧W★INGは格闘技路線を打ち出していて、格闘3兄弟(徳田光輝、齋藤彰俊、木村浩一郎)をエース候補で売り出していたんで。自分が来たあとも、松永をエースにするなんて空気は微塵もなかったんですけど。たまたま大宝くんに「俺、デスマッチがしたくてW★INGに来たんだ」って言ったら、「ホントですか? 松永さん、デスマッチやりますか?」って聞かれて。「やるよ」「爆破マッチとかできますか?」「全然大丈夫」って言ったら、大宝くんは燃えたんですよ。
――W★INGがそもそもデスマッチ系団体になっていったのは、代表の茨城(清志)さんの意向ではなく、松永さんと大宝さんが意気投合したのが最初のきっかけなんですか。
松永 そういうことになりますね。あれだけW★INGに尽くしてきた大宝くんが、茨城さんと会わなくなった事情も自分は全部知ってますし、憶えてますよ。
――インタビューの続きは絶賛発売中の「BUBKA10月号」にて!
まつなが・みつひろ=1966年3月24日生まれ、愛知県出身。学生時代より相撲、空手の修行に励み、1989年10月FMWにてプロレスデビュー。以降、W★ING、大日本プロレス等の団体を渡り歩き、ファイヤー・デスマッチ、五寸釘デスマッチ、裸足蛍光灯デスマッチなど、危険かつ過激な闘いに身を投じる。東京都墨田区にあるステーキ店「ミスターデンジャー」のオーナーでもある。