プロデューサー、トラックメイカーS.A.Lの音楽性のルーツを探る
――シーンが沸々としていて、盛り上がる直前の時期ですよね。その後のブームの恩恵は受けたんですか?
S.A.L. いや、それが自分はまだ若かったんですよね。A.K.I.と同い年で、あっちはバーンと行ったけど、俺はスケーターだぜって斜に構えてたから、高校卒業してアメリカに行ったんです。サンフランシスコに留学という形で。
――そうなんですか! 知らないことばかりです。
S.A.L. サンフランシスコはLAのシーンからは離れていて、何やるにも北すぎるって感じではあったけど、毎日スケボーして、週末はブラックミュージックのレコード買ってました。当時はパブリックエネミーとかの思想的なものが強くて、日本人とかアジア系がヒップホップを聴くのは変だろうという感じで。大学でチャックDが講演したりして興味があったけど、行く気にはなれなかったな。アジア人のスケーターというのも珍しがられました。今でこそ日本人はオリンピックで活躍してますけど、当時はクリスチャン・ホソイって日系人のブームがちょっとあったくらいで。
――当時のスケーターのビデオを見るとヒップホップもハードコアも流れていて、カルチャーとして一緒くたになっていて。
S.A.L. そうそう、だから自分のなかではスケートと音楽がイコールで結びついてました。LAにベニスビーチというところがあって、そこにスケーターが集まってたりするんだけど、昔は結構エグくて、ギャングチームがかなりいて。指がないチカーノが自転車でウロウロしてたりしてこわかったなぁ。そこに日系人のスケーターがいたので一緒に滑らせてもらってました。その人はドレッドでジャー・ラスタファーライなノリだったので、それでレゲエに入っていったり。
――それが巡り巡って30年後のFAREWELL,MY D.u.bに繋がるという。この話からどうやってO’CHAWANZになるのか想像もつかないです(笑)。
S.A.L. ホントですよね。サンフランシスコっていわゆるシリコンバレーがあるので、学校のコンピューターが全部Macだったんですよ。まだQuadraが最高クラスだった頃の。お前インターネット知ってるか、とか言われても、これがなんなのって感じだった。でも、それでコンピューターに興味を持って、日本に帰ってきたらマルチメディアだなんだと始まってきて、そういえばAppleってどうなんだろうと調べたらちょうど値段が下がってきた頃で。IIciの廉価版が出て、だんだんカラーになってきた時代で。それで、俺もマルチメディアの流れに加わってみようと思って、Macを1台入手して。スケボーの映像をいじりたいなって気持ちがあったんですよね。でもその頃のPCのパワーじゃ全然追っ付かなかったので、とりあえず音楽やってみるかと。
――それって92、3年のことですよね。パソコンで音楽を作るのもまったく主流ではなかったんじゃないですか?
S.A.L. もう全然。ハードディスクレコーディングなんてまだ夢のようなことだった。MIDIベースの時代で、AKAIとかSP-1200みたいなサンプラーを持ってる先輩の家に行って、ひたすらサンプリングしてループかけてDATに落とし込んだりしてました。それをやってたらちょこちょこ仕事が来るようになっていきました。映像に音をつける仕事が多かった。
――日本のヒップホップの黎明期に触れていたものの、いいタイミングで渡米して、帰ってきた後もそこにどっぷりと浸かることがなかったんですね。
S.A.L. そう、日本語のヒップホップは飛ばしちゃった。根本にミュージシャンみたいなマインドがないから全然違うバイトとかもしてたし、でもことあるごとに「あれやってみない?」みたいな話が来て、音楽のほうに引っ張られてきた感じですね。
――エンジニアの仕事も多かったんですよね。
S.A.L. 多いです。ハードディスクレコーディングができるようになってきたとき、これはもうサンプリングどころじゃないと思ったんですよね。
――インタビューの続きは発売中の「BUBKA10月号」で!
取材・文/南波一海
S.A.L.|ROMANTIC PRODUCTION主宰。O’CHAWANZ、MIKA☆RIKA のサウンドプロデュース他、さまざまなアーティストへの楽曲提供も行なっている。
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