【BUBKA9月号】天龍源一郎がレジェンドレスラーについて語る!ミスタープロレス交龍録 第33回「大仁田厚」
天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!
前回の谷津嘉章に続いて「犬猿の仲シリーズ第2弾」ということで、大仁田厚を語ろうか(笑)。
俺が相撲を辞めてプロレスに入った時、渕(正信)選手、薗田(薗田一治=ハル薗田)選手、大仁田選手の3人が全日本プロレス生え抜きの若手三羽烏と呼ばれていたんだけど、あとから入った俺がポジション、待遇を飛び越えちゃったんだよ。で、彼らの試合を観ると、そつなくこなすから「飛び越えちゃって、悪いなあ」っていう気持ちは持ってたよ。
そこで渕選手は大人の対応、薗田選手は「相撲から転向した天龍源一郎」っていうのを敬う…とまでは言わないけど、それなりの接し方をしてくれたんだよね。
大仁田選手だけ「何で、こいつが俺の上なんだよ!」っていう、彼の性格そのままの接し方だったね。ジャイアント馬場さんの付き人で、俺が入った時点ですでにプロレスを2年半やっていたしね。
血気盛んな18歳だったから「俺はキャリアも上で一生懸命にやってるのに、こんな理不尽なことは納得できない!」っていう感じだったよ(苦笑)。敵意を剝き出しにしていたね。 でも馬場さんは俺がプロレスに入る時の「トップクラスとしての待遇をしていくから」っていうのを終生守ってくれて、俺が何回もアメリカに行って駄目な時でもグリーン車を手配してくれたよ。
でも子供だった大仁田クンにしてみたら、ポッと来た天龍がジャンボ鶴田と一緒にセミファイナルに出たりしているのが癪に障ったと思うんだよ。
でもその後、馬場さんがジュニア・ヘビー級を活性化しようと思って大仁田に白羽の矢を立てて、ノースカロライナでジュニアのチャンピオンになったんだから(82年3月7日、チャボ・ゲレロからNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座奪取)馬場、鶴田、天龍のグループに食い込んだっていう気持ちが彼にはあったと思うよ。
まあ、センスが悪い方ではなかったよ。同じジュニアでもウルトラセブンよりはるかにキレがよかった。大仁田の方がいろんなことをやってみたり、いろんなことをやろうとしている意欲が垣間見えた。
――インタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA9月号にて!
大仁田厚
1957年、長崎県出身。ジャイアント馬場に憧れ全日本プロレスに入門。1974年佐藤昭雄戦でデビュー。1981年の海外修行でNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得。帰国後の1983年に起こした膝の大怪我がもとで1985年引退。その後タレント活動などを経て1989年FMWを旗揚げし、ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチなど、のちに「邪道」と呼ばれるスタイルで一気に注目を浴び、人気が上昇する。新日本プロレスへの参戦など各団体へ参加をしながら2001年には参議院議員選挙に当選。2016年通算7度目の引退、2018年にボランティアレスラーとして、7度目の現役復活を宣言した。