渡辺正行「テレビに出る前の原石を、たくさん見ることができたのは幸せですよね」
―― 運だけでこのキャリアは無理ですよ!(笑)
渡辺正行 スタートダッシュが早いのは、コント赤信号がお芝居からスタートしているところも大きいと思う。僕らの出自は、お笑いじゃなくて演劇。大学生で演劇の世界に足を踏み入れ、テアトルエコーの劇団員として活動している最中に、劇団東京乾電池や劇団東京ヴォードヴィルショーが登場して、笑いをテーマにした演劇が広がっていった。コントチックな演劇を見て、僕らもお芝居の勉強の一環としてコントを始めてみたんです。最初はコントなんてイロモノだと思っていたけど、やってみると楽しかった。しかも、学園祭でめちゃくちゃウケた……他の学園祭ではダダすべりなんだけど、名もない自分たちが30分間ウケまくった感覚が忘れられなくて。(ラサール)石井君は早稲田で、僕と小宮(孝泰)君は明治だったから、自分たちを冷静に分析することも嫌いじゃなかった。このまま演劇を続けていても10年は厳しい。だったら、手応えのあったコントの方が向いているんじゃないのかなって。
――当時は、コントを主体とするお笑いグループって、ブルーオーシャンだったんですか?
渡辺正行 全然いなかった。コント太平洋さんなど、まったくいないわけではなかったけど、漫才に比べればはるかにチャンスがあった。コント太平洋のツッコミ・市川(太平)さんから、道玄坂にある「渋谷道頓堀劇場」(道劇)というストリップ劇場、「その幕間にコントをする若手がいなくなったから、本気でやるならどうだ」と誘われたんですよ。それで道劇の一員になることを決めたんです。僕は、毎日舞台に立てるし、ウケなくても何かしらお客さんとコミュニケーションが発生するから、バイトをしてコントの腕を磨くより、道劇の方が力が付くと判断した。でも、小宮君はテアトルエコーの劇団員として声優の仕事をしていたから、「休団したい」と伝えていた。休団なんてできないから結局退団するんだけど、道劇の一員になったのは、僕、そして石井君、最後に小宮君という具合にタイムラグがあった。全員が正式に道劇の一員になったことで、コント赤信号は正式にデビューしたんだけど、それまではテアトルエコーの劇団員仲間だったけど、芸人ではなかったんですよ。でも、道劇は1日2500円、1日4回ステージで12時間拘束、365日で休みなし……安すぎる!(笑) 正月の元日だってやるんだよ。誰が元日からストリップなんて見るんだろうと思っていたら満席。初詣の後にストリップに来るんだろうなぁ。
――御来光からの御開帳(笑)。
渡辺正行 最初は一生懸命頑張ろうと思うんだけど、やっぱりストリップ劇場生活に染まっていくわけですよ。スタッフにしても、お金を稼ぐために働いているだけですから上昇志向があるわけでもない。気がつくと、僕らも道劇の師匠である杉兵助先生と麻雀ばかりやっていた。そもそも、ぜんぜんウケないんだから! 学園祭のときにものすごくウケたコントをやってもシーンとなるだけ。ただ、まったく笑わない板の上に毎日4ステージ立たなきゃいけない……この経験は振り返ると、とても大きかったなぁ。とは言え、当時はそんなことを思わないから、次第に僕らも下ネタを交えたストリップのお客さんが好きそうなネタをやるようになっていって。乾電池や東京ヴォードヴィルショーに感化された笑いはどこにいったんだと(笑)。