【BUBKA8月号】天龍源一郎がレジェンドについて語るミスタープロレス交龍録 第32回「谷津嘉章」
天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!
今回は、右足が義足になりながら、6月6日のさいたまスーパーアリーナでプロレスにカムバックした谷津嘉章について話そうかと思うよ。
犬猿の仲と言われている谷津の名前を俺が口にするのは意外かな? 1992年にSWSが崩壊したのは、谷津嘉章と仲野信市がクーデターを起こして、それに嫌気がさしたメガネスーパーの田中八郎氏(社長)が閉鎖したっていうのを、俺はずっと信じてるよ。それからはずっと接点がなかったし、気にもならなかった。眼中にもない存在だったよ。
去年、糖尿病で右足を切断したっていう話を聞いて「ああ、谷津も大変なんだな」っていうぐらいでね。でも義足を付けて、聖火ランナーをやるとか、またプロレスをやろうとしていることを自分で発信するようになって「ああ、前向きに頑張ってるんだな」って、今になって俺の方が親近感を覚えたっていうのが正直なところだよ。
彼と初めて会ったのは、全日本プロレスのテレビ収録でテキサスのダラスに行った時(1983年6月17日、リユニオン・アリーナにおける『インターナショナル・スターウォーズ』)。「これが新日本プロレスに入って海外武者修行をしている谷津嘉章か。
アマレスでオリンピック代表になったのにアメリカに来て苦労して、何だか不憫だな」と思ったのが最初だよ。新日本の選手だから挨拶程度しかしてないけど、同じアマレス出身者ということもあってか、ジャンボ(鶴田)の方が親しそうに話していたね。
実際に接点を持ったのはダラスで会ってから1年半後…長州たちとジャパン・プロレスとして全日本に乗り込んできてからになるね。長州、ジャンボ、谷津を比較すると、アマレス関係者はみんな「谷津が一番強かった!」って言ってるよね。
谷津はアマレスの重量級だったから地べたに根が張ったようなスタイルで、ずっしりしていて、長州、ジャンボよりも強さは感じたけど、それはプロレス的には「動きが重たいな」っていう印象になるんだよ。だからプロレスでの谷津は不器用で、プロレス・センスはないなって思ったね。言葉は悪いけど「愚鈍だな」っていう印象だったよ。
フロント・スープレックスも、そんなに華麗っていう感じじゃなくて、引っこ抜いて投げているっていう感じだったしね。ただ、タフだったのは確かだよ。長州やジャンボは打たれたら顔をそむけるとか、逃げるとかがあるけど、谷津にはそれが一切なかった。ドンと構えて「来るなら、来てみろ!」っていう感じで、打たれ強かったね。
あのままやっていたら谷津嘉章独特のカラーが出たと思うけど、途中で自分を殺して妥協しちゃったっていうのかな、長州力のカラーに殺されたというか、アニマル浜口さんのカラーに染められちゃったというか。もうちょっと自分を出してやっていけば、ジャパン・プロレスの中でも長州、浜口さんと違う存在感が出たと思うよ。
――インタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA8月号にて!
谷津嘉章
1956年、群馬県出身。足利工大附属高校でレスリングを始める。日本大学レスリング部時代、1976年のモントリオール五輪に出場。1980年のモスクワ五輪でも日本代表に選出されるが、日本のボイコットで出場できなかった。同年に新日本プロレスに入団。1983年には長州力の維新軍に加入し長州に次ぐ軍団の副将格に成長。ジャパンプロレスでは全日本プロレスに参戦し、長州とのコンビで活躍する。SWSを経て1993年にSPWF(社会人プロレス)を設立。2019年、糖尿病の影響により右足の膝下を切断するも、2021年6月に義足をはめてプロレスのリングに復帰した。
天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。