【BUBKA1月号】侍戦士と振り返る、80、90年代の豪快プロレス黄金時代…越中詩郎
――鶴田さんは、若い頃から“怪物”だったんですね。
越中 それを言ったら、天龍さんも長州さんも藤波さんも、みんなそうでしたけどね。みなさんオーラがあったし、やっぱりよく練習してましたよ。練習してないやつはダメですよ。僕が長州さんに言われて一番心に残っている言葉は、「控室で座ってるようなことはするなよ、練習しろよ」ってこと。あれは金言ですよ。いまだに僕はそれを守ってますから。
――現場監督時代の長州さんは、マッチメイクをするだけじゃなく、そういう控室での厳しい空気感も作り出していたんですね。
越中 本当に選手のことをよく見てましたよね。しっかり練習して努力している人間にはチャンスを与え、控室で座っているようなやつには絶対にチャンスはくれなかった。それに当時の新日本は、どこの会場も満員で、選手の頑張りっていうのは金銭面でもちゃんと評価してくれましたよ。それはありがたかったです。
――90年代の新日本が、いちばん年俸が高かったといいますもんね。
越中 そういう意味では、本当にいい時代、いい先輩、いい営業の人たち、スタッフの人たちに恵まれましたよ。そしていちばんは、たくさんのファンの人たちが応援してくれたこと。やっぱり、これがいちばん大きい。
――あの時代は、ものすごい盛り上がりの試合がたくさんありましたしね。
越中 あれだけ満員のファンが沸いてくれたら、閑古鳥が鳴いてる会場ではぜったいにできないような試合もできちゃいますよ。べつに歓声だけじゃなく、ブーイングでもいいんです。天龍さんたちWARとの対抗戦なんか、客席からペットボトルが飛んできたりしましたけど、それだけファンが熱くなってるってことだから。
――80年代は、新日本で観客の大暴動も3回起きましたけど、越中さんはそのうち2回を現場で体験してるんですよね?
越中 とくにすごかったのが、たけしプロレス軍団の時(87年12月27日「イヤーエンド・イン・国技館」両国国技館)。中身が入ったままの飲み物とかがバンバン飛んでくるから。あんなのが頭に当たったら大変だよ。だから頭だけは守ってね。あと新日本は会場だけじゃなく、旅館も2軒くらい壊してるから(笑)。