吉田豪「What’s 豪ing on」Vol.8 原田郁子(クラムボン)、自分たちが出した音に全身を震わされて
吉田豪によるミュージシャンインタビュー連載。第八回のゲストは原田郁子。音楽を通じて人々と会話してきた彼女がその半生と、クラムボン結成から現在までの気持ちの変遷を語ってくれた。
気配を消すスキル
――(取材日を間違えていた吉田豪が45分遅刻。温和な原田さんは和やかに待ってくれてたようなんだが、そんな事情で50%ぐらいしか下調べもできず、寝起きのままで待ち合わせ場所へ)すみませんでした!
原田郁子 いえいえ、私も時々やっちゃいます。今日暑いので、何かあったんじゃないかって心配しました。とにかく、よかったです。
――失礼しました。気を取り直して、よろしくお願いします。
原田郁子 よろしくお願いします。
――デビュー当時はインタビューが苦手だったみたいですけど、最近は?
原田郁子 いまも、です(笑)。このたびは、お招きいただきありがとうございます。怖いなあと思いながらも、思い切って、お引き受けました。
――怖くないですよ! ただ、デビューしたばかりの頃はプロモーション期間にバーッと取材を受けたら弱ってたわけですね。
原田郁子 フフフ、どこかで記事をお読みになったんですね。全然しゃべれなくて。「どうしてクラムボンっていうバンド名なんですか?」と日に何度も質問されるんですが、うまく答えられない。
――まずは基本的な話を聞かれまくって。
原田郁子 そうですね。そもそも、なんでかっていうことを考えたことがなくて。「では、どうして宮沢賢治の『やまなし』からクラムボンを使おうと思ったんですか?」ってどんどん掘り下げた質問になると、「えっと、それは………」みたいになってしまって。あまりに言語化できないことにまた落ち込み。
――体調が悪くなるレベルだったっていう。
原田郁子 ホントに毎日落ち込んでました。行きがけに電車に乗ってると途中下車してゲーしてしまって。たぶん体が拒否反応を。
――「もう取材されたくない!」「クラムボンがどうとか聞かれたくない!」と。
原田郁子 話せないし、写真を撮られることも3人とも苦手でしたね。クラムボンの『シカゴ』っていう曲の「もう何にも言えないよそんなつもりじゃないのデタラメしゃべりだす ああなんて言えばいいの」っていう歌詞は、そのときのそのまんまの気持ちでした。でも、いま思えば、そういう一つ一つが、何者でもないバンドを知ってもらうきっかけだったんだよなって。自分たちでレーベルやるようになると、より身に沁みて、気づかされるというか。当時の自分に言ってあげたいです、「今はキツイかもだけど、大事なことだからね。なんとか、やれ!」って。顔に出すぎている(笑)。
――顔にも出てたレベルだったんですか?
原田郁子 写真によっては、ホントに全員すごい顔してて、全然可愛い気がない(笑)。インタビューの途中でケンカ腰みたいになっちゃったこともあったんですよね。「なんでそんなこと聞くんですか?」とか言ってしまって。
――仕事だからです!(笑)
原田郁子 そうですよね! 失礼しました、ホントに世間知らずで……。
――その時期ですかね、インタビュアーの方が取材中に泣き出したことがあったのは。
原田郁子 はい。ミト(※クラムボンのベース担当。さまざまなアーティストへの楽曲提供・プロデュース・演奏参加を行っている。アニメへの造詣が深く、アニソンDJユニット・ALLINNSとしても活動)くんがすごい理詰めで、なんでそういうことを聞くのかを逆質問みたいにしていたら、「すみませんでした」と泣きながらレコーダーの停止ボタン押して。その光景が忘れられないですね。……(吉田のレコーダーに向かって)すみませんでした! 生意気でした!
――いま謝罪(笑)。
原田郁子 時を越えて。極端にコミュニケーションが苦手だったんですよね、もともとが。
――原田さん以外の2人もそんな感じで。
原田郁子 はい。お互いがどういう音楽を聴いてきて、どうして楽器をやりたいと思ったかっていう、メンバー同士も知らない話を取材の場で初めてするから、ミトくんに対しても「え、TMネットワーク(※1983年結成の小室哲哉、宇都宮隆、木根尚登の3人組。代表曲は『Get Wild』『Self Control』など)が好きだったんだ! 魚博士になりたかったんだ!」とデビューしたあとで知るという。
――新鮮で楽しそうじゃないですか。
原田郁子 アハハ、確かに。つまり、もともとコミュニケーションが取れていないから。
――友達同士で始めたバンドでもないから。授業で演奏が合いそうなだけで組んだ人たちとの関係がなんとなく続いちゃって。
原田郁子 よくご存じで。ありがたいです。
――何度も取材で話してきたことが、こうやってちゃんとプラスになっていくんですよ。
原田郁子 よかった! 「なぜなら」っていつも言ってました。クラスメイトって言うと仲がいいと思われるかもしれないんですけど、そういうことでもなくて……っていう説明を。
――もともと幼少期は、内向的というか、自分の感情を出せないタイプでした?
原田郁子 うーん、両面あったような気がします。
――学校には馴染めた側でした?
原田郁子 転校が多かったので、馴染めたかと言われると馴染めないほうが多かったです。何年か置きにまた辞令がきて、次の土地に行ってくださいってなるので、友達を作りたいんだけど、またその友達とバイバイするっていうリミットつきっていうのがあって……なんかうまくしゃべれないかも。あとはクラスの中にポンと入る、それも2学期から入ることがあったりすると、もう出来上がったグループがいくつもあるから、俯瞰して見ちゃうんですよね。この人にみんな気を遣うんだなとか、この人が言うとみんなそっちに行くのかとか、この人はいつもひとりでいるよなとか。その癖はいまでもあるかもしれない。距離を詰めすぎると離れたくなるとか、もともと人との距離があまり近くないほうが助かるところがあるんだと思います。人間性とか好みは全然違うんですけど、たまたまクラムボンは3人ともそういうタイプで。集団の中にいてもちょっと外れたところにいる、もしくはどっか行っちゃって、その輪にいないとか。
――さっきはつい流して聞いてましたけど、インタビューを受ける頃ってメンバーと出会ってからけっこう経ってからですよね?
原田郁子 フフフフ、そうですね。お互いそんなに人に興味がなかったんでしょうね。自分の好きなこととかやりたいことに精一杯で。全然違う星の生まれの3人が、いまもちょっとずつ近づいてる途中っていう感じです。
――いまもまだ! このキャリアで?
原田郁子 大ちゃん(※クラムボンのドラム担当の伊藤大助。The Sun calls Starsや、高野寛+伊藤大助としてのリリースや、尚美ミュージックカレッジ専門学校の非常勤講師も務めている)、ミトくんが普段どういう暮らしをしてるか、ホントにわからなくて。今年2月にガーデンシアターでライブをやったときにパンフレットを作ったんですよね。そこで私の妹(原田奈々)に撮影とインタビュアーをやってもらって。結構なボリュームで、3人個別でここ数年の話をして、写真もポートレイトと別に、それぞれ携帯で撮ったプライベートな写真を載せるページもあったり。そこで初めて知ることがたくさんありました。「えぇー、そんなこと考えてたんだ」「大ちゃんちのハムスターかわいいな」って。いまもって新鮮であるという意味では、素晴らしい距離感を保ち続けているのかも。
――原田さんが子供の頃にピアノを始めた時点で将来の夢はどんな感じだったんですか?
原田郁子 楽器を弾くとか、人前に出るなんてことはまったく思ってなかったですね。確か小学3年の頃に『風の谷のナウシカ』、5年の頃に『天空の城ラピュタ』の映画を観たんですが、ものすごく感動して、最後のエンドロールのときに、いっぱい名前が出てくるじゃないですか、「こんなにたくさんの人で作ってるの!?」ってビックリして、そのひとりになりたいと思ったことはありました。例えば、背景の葉っぱを描く、色を塗る、どうやったらそのひとりになれるんだろうって。そのくらい、大好きでした。だからいまやってることが不思議でならないです。
――子供の頃に住んでた団地で谷川俊太郎(※詩人、絵本作家、翻訳家。原田の最新ソロアルバム収録の『いまここ』に作詞で参加している)さんの絵本の読み聞かせの会があったっていうのも、ルーツっぽく感じるなと思いました。
原田郁子 そうですね。母親たちが公民館に集まって、“みみをすます会”っていうのをやっていて、そこで絵本を読んでもらったり貸し出したりということをやってたんですけど。そこに谷川さんの本もありました。
――谷川さんの詩のフレーズも覚えて。
原田郁子 口で言って遊んでみたり、言葉遊びみたいなことをやってましたね。オモチャとかゲームをあんまり買ってもらえなかったので、ないなりに妄想して遊ぶとか、自分ちにいっぱいあるわけじゃないんだけど、誰々ちゃんちにある絵本を借りてきて読んだり。それが月のお話だとしたら月を見てるときに話の続きを想像するとか、そういう小さな遊びみたいなことはずっとやっていたんですよね。
――オモチャを買ってもらえなかったことで、空想とか妄想の方向に進んだんですね。
原田郁子 そうですね。ウチの父親は帰りがいつも遅くて、でも帰ってくると母と必ず晩酌をしてたんですね。ホントは子供が寝ないといけない時間に魚の匂いがしてきたり、なんだか楽しそうにしてるから、それに対抗して子供部屋で遊ぶっていうことをやっていまして。そっちが楽しそうならこっちも楽しもうって。妹と布団被ってお話を作るとか、子供にしか見えないもうひとつの国を作って、そこの友達に会いに行く。切符を作るところから始めて、どうしたらその国に遊びに行けるかふたりで冒険するみたいな。絵本を読むことからだんだん実践というか、自分たちで遊びを思いついて。母の前で絶対わからないキャラクターの名前を言いながら、「ナントカちゃんに昨日会ったもんねー」とか言って対抗して。
――小6のとき、転校先に馴染めず殻に閉じこもったみたいな話もありましたよね。
原田郁子 それまで住んでたところがめちゃくちゃ楽しかったので、その反動もあって。町ってそれぞれ雰囲気というか色があると思うんですが、そのギャップにも驚いて。ちょうど、中学に入った頃が、まだまだ荒れてるというか、ヤンキー文化があったので。目立ってはいけないっていう。
――目立ったら大変なことになる。
原田郁子 いかにして気配を消すかっていう技を身につけました。だからいまだに一瞬で気配を消します。そのくらい、死活問題というか……。
――暴力が支配する世界。
原田郁子 身近ではありましたね。タイマン……これ、どこでも話したことないし、話しづらいことなんですけど。
――まさか、原田さんの口から「タイマン」という言葉が出るとは。
原田郁子 (以下、大幅に省略)ごめんなさい、どう書けばいいか……書けるわけないか。うーん、なんというか、やる側にもなり、やられる側にもなり、傷つけてしまったことも、傷ついたこともあり、いまでもたまに夢に出てくるぐらい、トラウマというか。
――治安の悪い学校で気配を消すようになった、ぐらいまでは書けると思うので、デリケートな部分は端折ります! そんな諸々があって殻に閉じこもるようになったんだろうなってことは、なんとなく伝わるはずなので。
原田郁子 すみません。そういう弱肉強食みたいな世界で生きていくのは嫌だな、自分には無理だな、と痛感して。ブワーッと溜まってる先輩たちがいると、いつも息を止めて気がつかれないように歩いてました。そうやって身を守るしかないというか。
――その時期に(ザ・)タイマーズ(※忌野清志郎によく似た人物・ZERRY率いる4人組覆面バンド。モンキーズ楽曲の日本語カバー『デイ・ドリーム・ビリーバー』はあまりにも有名)にハマッたみたいですけど、その謎が解けた気がします。
原田郁子 わーーー、なんでバレてるんですか! そうなんです、駅前に貸しレコード屋さんがあって、とにかく、学校にも行きたくないけど家にも帰りたくなかったので、よく土手でぼーっとしてたんですけど。そこにタイマーズと、RCサクセション(※68年に忌野清志郎を中心に結成。代表曲は『雨あがりの夜空に』『スローバラード』『トランジスタ・ラジオ』など)の『COVERS』が面出しされてて。わけもわかってなかったんですけど、『夜のヒットスタジオ』(※68~90年に放送された音楽番組。ザ・タイマーズは派生番組の『ヒットスタジオR&N』に出演し、生放送の楽曲内で放送禁止用語を連発しながら「FM東京」を非難した)に出たんですよね。
――生放送で無茶苦茶してましたよ!
原田郁子 衝撃でしたね。教授(坂本龍一)と(忌野)清志郎さんがキスしたとき(※84年に坂本・忌野のコラボレーションシングル『い・け・な・いルージュマジック』がリリースされ、MVや音楽番組で忌野が坂本にキスをするシーンが話題に)も。歌番組に突如としてすごい人たちが現れた!って。おそらくそういう認識で。タイマーズを借りてカセットに落として、夜ご飯のときに「Timerを持ってるー」って家族で聴きながら(笑)。当時はそれがなんのことかはわからないんですけど。
――そりゃそうですよ(笑)。でも、それが荒んだ心にちょうどハマッたわけですね。
原田郁子 そうですね。ザ・ブルーハーツの『TRAIN‐TRAIN』とか『青空』とか。「どこかに連れてってくれ」っていう歌が、そのときの自分にピタッとハマったというか。そういうふうにして、だんだん能動的に音楽を聴くようになっていきましたね。土曜の午後に、ラジオで『コーセー化粧品歌謡ベストテン』(※FM東京(現在のTOKYO FM)で放送されていたラジオ番組。現在も『JA全農 COUNTDOWN JAPAN』という番組名で放送されている)っていうのがあって、面白そうな曲をカセットで録ったり。
――学校の治安の悪さとかエアチェック文化とか、完全にボクの世代ですよ。
原田郁子 あ……そうですよね。ミトくんは東京のめちゃくちゃ都会の出身なんですけど。
――ど真ん中の人ですもんね。
原田郁子 もう新しい波が。ヤンキーではなくて、ギャルとかチーマーのムーブメントが押し寄せていたみたいなんです。でも、私は高校になっても、田渕ひさ子(※NUMBER GIRL、bloodthirsty butchersの元ギタリスト。現在は自身のバンド・toddleや、PEDROのサポートメンバーとして活動。クラムボンの楽曲にも参加している)さんと一緒の女子校なんですけど、レディースの方もいました。ひとりひとりと話すと、恋愛のことで悩んでいたり、仲間思いだったりおもしろいんですけど、集団の怖さというか……いまでも怖いですね。たくさんの人のなかにポンとひとりで入るとものすごく気配を消します。
――まだ転校生感覚なんですね(笑)。
原田郁子 誰にも気づかれないように端っこのほうに行ってしまいます。
――聞けば聞くほど、よくこの仕事にたどり着いたなっていうタイプですよね。そんな人が、なぜフロントマンをっていう。
原田郁子 ホントです。ミトくんに替わってもらえないかなって言ったことありますね、昔。そもそも自分は絶対に向いてないですから。でもミトくんには華があったんですよね。
取材・文/吉田豪
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原田郁子|福岡県出身。95年にミト(ベース)、伊藤大助(ドラム)とともにクラムボンを結成。歌と鍵盤を担当する。99年にシングル『はなれ ばなれ』でメジャーデビュー。バンド活動のほか、多くの音楽家との共演、CM歌唱、劇団マームとジプシーなどの舞台音楽担当をはじめ、活動は多岐にわたる。2023年、クラムボンの最新アルバム『添春編』、15年ぶりのソロアルバム『いま』をリリースした。
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