天龍源一郎がレジェンドレスラーについて語る!ミスタープロレス交龍録 第48回「小橋建太」
小橋が全日本の会場に入門を直訴しに来たのは大津の体育館(87年5月26日、滋賀県立体育館)、馬場さんは俺たちとポーカーをやってた時だったね。ゴリちゃん(ハル薗田)が「馬場さん、新弟子になりたいって奴が来てますよ」って言ってきて、馬場さんはポーカーの最中だから「何なんだよ!?」とかっていう感じだったんだけど「いやいや、いい体していますよ」って言うから、馬場さんもチラッっと興味を示したことを憶えている。
あとで小橋に聞いたら、最初は書類選考で落とされて、ボディビル関係のコネを使って大津に来て入門の許可をもらって「事務所から連絡が行くから、それまで待ってろ」と言われたんだけど、いつまで経っても連絡が来ないから、自分から事務所に電話して、上京して合宿所に入ったって言ってたね。多分、小橋が自分から連絡しなかったら、そのまま放っておかれたと思うよ。俺も相撲取り上がりから、よく「全日本プロレスに入りたいんだけど」って相談されたけど、馬場さんは「人数はこれくらいでいっぱいって決まってるんだよ」って言っていたからね。それはなぜかと言ったら日本テレビからの放映権料で賄っていたから、余剰人員はいらないってことで、そう易々と「誰でもOK」ではなかったんだよ。
それに小橋が入った年は大学のアマレス・チャンピオンの菊地(毅)、大相撲から元十両の田上(明)、佐山聡さんの『スーパー・タイガー・ジム』でインストラクターをやっていたシューティング社会人王者の北原(辰巳=光騎)がいたから、特に格闘技のバックボーンがない小橋の第一印象は、体はそこそこ大きかったけど、真面目っていうだけだったね。
あの頃の俺は、天龍同盟として正規軍とは別行動だし、下の奴なんて鼻クソほども気にかけてなかったよ。でも、真面目だから馬場さんの付き人に採用されたんだよね。他の奴らよりプロレスに対する向き合い方が頭ひとつ抜けていたね。真面目過ぎて「そんなに練習して何になるんだよ」って先輩たちに変人扱いされていたね。そういう風潮が当時の全日本にはあったんですよ。
取材・文/小佐野景浩
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天龍源一郎|1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。
小橋建太|1967年、京都府生まれ。1987年20歳の時に務めていた会社を退職し全日本プロレスに入門。1988年大熊元司戦でデビュー。デビュー後からジャイアント馬場、三沢光晴とタッグを組むなど若手のホープとして活躍。1993年世界タッグ王者、1996年には田上明を破って三冠ヘビー級王者に輝く。いわゆる四天王プロレス時代に全日本を牽引。2000年6月にはプロレスリング・ノアに移籍。GHCヘビー級王者、GHCタッグ王者に。病気や怪我の影響もあり、2013年の試合をもって現役引退。引退後はスポーツジムの経営や大学の講師を務めるなど、幅広く活躍している。
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