【追悼特別企画】アントニオ猪木は「レスラーとして、人間として計り知れない度量を持った人」天龍源一郎が語る
最後はもう相撲の突っ張りしかなかった。さすがに猪木さんも面食らっていたよね。パワーボムをきめて勝つことができたけど、やっぱりそこは猪木さんの意地だろうね、すぐ起き上がったもんね。レフェリーのタイガー服部さんがもうちょっと遅くカウントしていたら2.9で跳ねられていたと思うよ。
猪木さんをパワーボムで叩きつけて、押さえ込んで勝った時はね、茫然自失っていう感じだったね。「ああ、アントニオ猪木に勝っちゃった……」って、そういう感じだったよ。スリーパーで落とされて、指を脱臼させられて、どうなるかわからない展開からパワーボムがガーンと決まって、ワンツースリーを聞いた時には、それまでの高揚感がスーッと引いて厳かな気持ちになりましたよ。それからしばらくしてからだよ、「猪木をやっつけた。馬場と猪木に勝っちゃったよ!」って俗っぽい気持ちになったのは(笑)。
でも「馬場と猪木に勝った男」っていう称号は俺にとっちゃ重かった。だって力道山関から続くのは馬場、猪木しかいないのに、その2人をどういう形であれ、押さえ込んだわけだからね。あれで俺が新日本、全日本のトップにいたら、何ていうことはなかっただろうけど、WARという自分の団体をどうにかしようと一生懸命もがいている時に「馬場と猪木に勝った」っていう言葉を出されると「出してくれるなよ、たまたまだよ!」っていう気持ちがあったね。「おこがましい」っていう気持ちになったよ。
猪木さんにしてみれば「あの野郎、勝ち逃げしやがって!」って煮えたぎる気持ちもあっただろうけど、どこで会っても、そんなことは一言も言わないんだよね。で、去年の2月8日に俺のトークライブに出演してもらったんだけど、いきなり俺の真似をしてダミ声で喋って。あの人にはホントに勝てないよ(笑)。きっと前田日明も、長州力も、みんな「ああ、この人には勝てないよ」っていうものが何かあって、猪木さんのところに戻っていくんだよ、自然と。
馬場さんを例えるなら、霧がかかっている向こうに何か大きな残影が見えて「えっ、何だろう?」っていうイメージだけど、猪木さんは、底が見えないデッカイ沼のようなイメージかな。馬場さんとは全然違う意味で魅力的な人だよね。
猪木信者っていう言葉があるけど、猪木さんは信者が生まれた最初のレスラーだよ。ファンに「この人のためなら」と思わせたのはアントニオ猪木が唯一だと思う。あの「世界一性格の悪い男」って言われる鈴木みのるがテレビで堂々と「アントニオ猪木の大ファンで、新日本に入った」って言ってたからね(笑)。やっぱり、どんなレスラーよりカッコよかったし、信者になって新日本を目指した若者が多かったのはわかるよ。
凄いのはね、引退するまでテーピングやサポーターを一切しなかったこと。体は多分ガタガタだっただろうけど、それを見せるべきではないっていう確固たるポリシーを持っていたね。あれはプロレスラーとして感嘆するよ。いろいろスキャンダル的なこともあった猪木さんだけど、猪木寛至にだけは嘘をつきたくなかったのかもしれない。プロレスラーとしてのアントニオ猪木を全うしたかったから、テーピングとかニーパットとかをしたくなかったということだと思うよ。去年の猪木さんの喜寿のパーティーで長州力が「アントニオ猪木に国民栄誉賞を!」って言ったけど、議員もやったし、イラクに行って日本人の人質解放に一役買ったし、北朝鮮にも行って向こうの幹部と話をしたり、国民栄誉賞をもらったって、何ら不思議はないね。レスラーとして、人間として計り知れない度量を持った人ですよ。
取材・文/小佐野景浩
アントニオ猪木|1943年、神奈川県出身。1960年にブラジルで力道山にスカウトされ日本プロレスに入団。同年デビュー。アメリカ武者修行などを経て、東京プロレスを旗揚げ。その後日本プロレスに戻るも1972年に新日本プロレスを旗揚げし、数多くの試合、異種格闘技戦で活躍。国民的な人気を得る。1989年に参議院議員選挙で当選し、初の国会議員プロレスラーとして話題となった。1998年に現役引退。その後、新団体『IGF』の設立や映画・CM出演など多方面で活躍。2010年に日本人初の「WWE殿堂(ホール・オブ・フェーム)」に認定された。
天龍源一郎|1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。
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