清原和博が野球人としてもっとも輝いていた時代を読む3~プロ野球死亡遊戯があえて“令和の夏”に書きたかった話(著/中溝康隆)
一塁清原、三塁秋山幸二の“AKコンビ”でON砲の再現を狙うライオンズ側の熱意を受け止め、スカウトに寮の設備やプロの練習について質問を浴びせ、背番号は高校時代と同じ3がいいと母・弘子さんに甘えるように言ったという。交渉後は「いい球団やなあと思います」と入団に前向きな発言をする一方で、王巨人がとっておけばよかったと悔しがるようなバッターになりたいと思うかなんて際どい質問には、「そう思ってます。それを心の支えにしていくと決めています」とキッパリ。傷だらけの獅子は静かに牙を研ぎ、世界のホームラン王も憧れの存在から、倒すべき敵へ。なお同日に桑田は両親と一緒にPL学園を訪れ、早大受験を取りやめ迷惑をかけたことを謝罪した。当時の率直な心境を『文藝春秋』86年3月号で清原自身はこう語る。
「桑田が巨人に指名された時、パッと思ったのは、桑田がプロ野球に入って、オレがノンプロでやるなんて、みじめすぎて耐えられない、桑田が巨人で脚光を浴びているのに、自分は社会人野球だなんて、あんまりだ、ということでしたね」
翌27日には明るくやんちゃなキヨマーに戻り、学校で軟式野球部との対抗戦にリリーフ登板するなどリラックスムード。11月29日、桑田は巨人との初交渉後に「早くスッキリしたいと思ったが、自分でも何をどう言っていいか分からなくなり、5日間ほど眠れなかった。どうしてこんなに騒ぐのかとも思いました。マスコミの人にも、今は悪かったと謝りたい」と悩める十代の本音をチラ見せ。その後、清原は西武から高校生史上最高額の契約金8000万円の条件提示を受け、日本生命に入社辞退の挨拶をしてから、12月12日にスポーツ選手としては初めてサンシャインホテルの豪華絢爛「虹の間」で西武入団会見に臨んだ。単独での真新しい背番号3のお披露目に200人以上の取材陣が殺到。あらゆる面で超VIP待遇の西武入りだ。
映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の日本公開開始はこの1週間前のことだが、清原が乗ったのは時空を行き来できるデロリアンではなく、西武線の池袋発所沢行き特急レッドアローだった。網棚に頭をぶつけながら、2号車245番の席に腰をかけ、いざ西武球場見学へ。
ついに18歳の清原和博は、栄光に向かって走る、あの列車に乗り込んだのである。
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