清原和博が野球人としてもっとも輝いていた時代を読む3~プロ野球死亡遊戯があえて“令和の夏”に書きたかった話(著/中溝康隆)
このドラフトのキーマンのひとりは桑田の父・泰次氏だった。近鉄八尾駅前のスナックで巨人スカウトと同席していたという妙に生々しい噂も流れ、『週刊ポスト』では「西武は外れ1位で桑田君を指名させていただきます、とドラフト前夜に電話を入れてきた」と爆弾証言。桑田本人も引退後に雑誌『Number』の取材で「真澄、3球団が1位で指名してくれると言ってきたんだけど、どうする?」なんてドラフト当日の朝に父から電話で聞かれたと明かしている。そして、その3球団の中に巨人は入っていなかった、と。幼少期は家族で六畳一間に暮らすほど生活に困り、PL学園進学のために中学3年の3学期に転校を余儀なくされた。周りの大人たちは別の高校に行けば野球部全員を採ってくれる、お前に友情はないのかなんて責めてくる。PLサイドの監督もプロ入りすれば早大とのパイプが途絶える、進学しなければ自分は辞めるの一点張りだ。みんな組織の面子のことしか考えてない。もう誰も信じられへん。
“桑田事件”の真相はこれだ! 『週刊ベースボール』85年12月9日号の表紙にはそんな見出しが躍り、日に日に加熱する桑田バッシング。ドラフト3日後の11月23日には桑田が空路で上京。飛行機搭乗前、大阪空港で早大受験を断りに行くのか追及されると、桑田は「ボクを信用してください。最初から行くつもりだったのだから。昨日と今日で気持ちが変わったりしません」とコメント。しかし、東京で早大関係者と会談したその日の夜には一転巨人入りを表明するのだ。報道陣にもみくちゃにされながら、高輪の日本鋼管「高輪クラブ」で学生服姿のままたったひとりで記者会見に臨んだ桑田。
「まあ自分の初志を貫徹したっていうか。最初からジャイアンツ1位だったら行くって自分で決めてましたし。それ以外はもう早稲田っていうことで言ってきましたし。まあいつまでもモヤモヤした気持ちでいるよりスッキリした方がいいと思って」
【キヨハラに会いたくて 限りなく透明に近いライオンズブルー】
▼Amazonで購入