清原和博が野球人としてもっとも輝いていた時代を読む~プロ野球死亡遊戯があえて“令和の夏”に書きたかった話(著/中溝康隆)
PL学園の主砲として甲子園を沸かせた清原和博。1985年の運命のドラフトによって盟友桑田真澄は巨人に入団、忸怩たる思いを抱えながらも生粋の野球愛、プレイヤーとして西武ライオンズに入団。彼はここで野球キャリアの中でも最も華々しい活躍をすることになる。そんな彼の黄金西武ライオンズ時代約10年間を描いた『キヨハラに会いたくて 限りなく透明に近いライオンズブルー』(7月21日発売/白夜書房)より清原西武入団までをここに抜粋してお届けする。(全3回の1回目)
あの頃、原辰徳に憧れて、清原和博に恋をした。
あれは確かに初恋だった。1986(昭和61)年、日本の景気は右肩上がりで、バブルへと突き進んでいた。中森明菜が「DESIRE」を歌い、少年隊が「仮面舞踏会」で踊り、テレビ界の天下を獲ったビートたけしはフライデー編集部に殴り込んだ。コカ・コーラのテレビCMでは、ディスコで赤い250ミリ缶を持ったワンレンボディコン姿のイカしたおネエちゃんが、「Coke is it!」なんつってもの凄いテンションでパーティーの始まりをシャウトする。そんな混沌と混乱と狂熱の時代に高卒新人記録の31本塁打を放ったのが、西武ライオンズのゴールデンルーキー清原和博だった。
ライオンズが所沢に移転してきた1979年埼玉県生まれの俺が、本格的にプロ野球を見始めたのは86年シーズンのことだ。兄ちゃんの影響もあり最初から熱狂的な巨人ファンかつ、原辰徳ファン。同時にパ・リーグは自然と地元の西武を応援した。巨人は死にたいくらいに憧れた花の都大東京のチーム、西武はオラが街の身近なチーム。タツノリ愛よりはちょっと軽い、「なんかアイツいいじゃん」的なキヨハラへの淡い恋心。本塁打を量産する10代の清原は、ヒーローであると同時に自分たちと最も年齢の近いプロ野球選手でもあった。
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