渡辺正行「テレビに出る前の原石を、たくさん見ることができたのは幸せですよね」
――暴走族ネタにはそんなドラマが……。
渡辺正行 暴走族のネタというと、紳助・竜介さんのネタが有名だけど、僕らはコントでパターンが違う。しかも、暴走族という設定は、大きい声を出せる。大きい声って、下手くそでも声の雰囲気で何とかなるから実力不足をカバーできるんですよ。あと、僕らは東京ヴォードヴィルショーに影響を受けていたから、演劇特有の“ツッコミがない”要素を取り入れていた。ボケたらツッコミ側は、表情などでリアクションをするから、漫才はもちろん他のコントとも差別化しやすかった。演芸と東京ヴォードヴィルショーの中間をいくような演劇コント――そのスタンスをうまく取るように意識して作ったのが暴走族コントだった。ゆーとぴあさんのライブで披露するとウケて、お二人からもほめられた。それで解散せずに、そのまま道劇で修行を続けていたら、『花王名人劇場』の澤田隆治さんの目に止まって、テレビに出ることができたんですよ。
――実は緻密に設計されていたんですね。
渡辺正行 何がウケるかを分析していましたよね。漫才ブームの漫才師たちのネタは、テープレコーダーに録音して何度も聞き直したし、お芝居を見に行くにしても、どこで笑いが発生したかを片っ端からチェックしてメモを取っていた。自分が面白いと感じた箇所ではなくて、お客さんが笑ったところ。「この表情で笑った」とか「こういう言い回しで笑った」とか、ひたすら記録して。僕らは、お笑いのグループとしては力がなかった。お笑い力がないならないなりに分析すると、笑いの傾向が見えてくる。すると、まだ誰もやっていないパターンが見えてくる。勢いとロジックに基づいた発想、この二つで勝負するしかなかった。当時は、お笑い関係者からは演劇的という評価を受けたくらいなんだよね。そうやって徐々に、コント赤信号が世の中にウケ始めていったんですよね。お客さんもそうだけど、芸人って番組のディレクターやプロデューサーに対してもプレゼンしなければいけないわけだから。
取材・文=我妻弘崇
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渡辺正行=わたなべ・まさゆき|1956年1月24日、(現)千葉県いすみ市生まれ。明治大学在学中にラサール石井、小宮孝泰と出会い、コントグループ『コント赤信号』を結成。1980年にフジテレビ『花王名人劇場』にてデビューし、暴走族コントなどで人気を博す。テレビ番組で活躍するかたわら、1986年からは若手お笑い芸人の育成のための場、「ラ・ママ新人コント大会」を主宰。現在、第一線で活躍する人気芸人を若き日から見続けている。
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