田原総一朗『堂々と老いる』疲れたっていいんですよ好きなことをしているんだから
――田原さんが、明確に「老い」を感じ始めたのはいつ頃からでしょう?
田原 還暦を迎えたとき。胃腸がまったく動かなくなって、最初はがんだと思ったの。旧知の病院へ行って検査したらがんじゃなかった。自律神経失調症だと言われた。原因はわからないけど、気分が沈んでしまって鬱のような状態だった。知り合いを介して、東洋医学の先生と出会い、歯の噛み合わせが悪いと指摘されたんです。先生の言うことに従って治療を続けると、不安も解消されていった。段々と調子が良くなる中で、「生きる」ことの意味を考えるようになった。
――そういう状況下でも、『朝まで生テレビ!』(以下、朝生)をはじめ仕事をしなければいけない。つらいと感じることはなかったんですか?
田原 つらくない。むしろ、ありがたいこと(笑)。僕には趣味がない。あえて言うなら、人と話すことが趣味。それが仕事になっている。テレビ東京……当時は東京12チャンネルだったけど、僕は開局と同時に入社した。いまでこそテレ東は人気があるけど、当時は三流局。テレビ番外地と言われていた。
――三強(日テレ、TBS、フジ)、一弱(テレ朝)、一番外地と揶揄されていた。
田原 そう。番組を企画しても通らない。スポンサーも見つからない。だから、すべて自分で見つけるしかない。見つけさえすれば、好きなことができる。三流テレビでしたから、NHKや日テレ、TBSみたいな番組を作っても誰も見てくれない。他局が作らないもの作らないといけない。どういう番組か? 危ない番組(笑)。まともじゃ勝てない。当時の東京12チャンネルは、それを許容してくれたんだよね。
――自ら本番ショーも厭わないという(笑)。過激な体当たり取材が多かったと思うのですが、プレッシャーやストレスはなかったんですか?
田原 なかった。僕は不器用な人間だから、好きなようにさせてくれる東京12チャンネルと相性が良かったんだと思う。TBSや日テレにいたら、ストレスを抱えていたかもしれない。ただ……クビになりまして。74年、試験航行中に放射能漏れを起こして大問題になっていた原子力船「むつ」をめぐる推進派と反対派の騒動を伝えるため、76年から筑摩書房の雑誌『展望』に「原子力戦争」という連載を書いていた。そしたらクビになっちゃった。