船木誠勝「ガチンコでやれば八百長って言われなくなる 単純にそう思ってましたね」【UWF】
真剣勝負は5年待て
――その辺から、前田さんと気持ちの距離ができたわけですか。
船木 たぶん、違う方向を向いてたんでしょうね。自分は「UWFは真剣勝負だ」と言うなら、言ってることとやってることを合わせたい。でも、前田さんは、「それをやったら大変なことになる」という認識があって、「だから、いまはこのスタイルなんだ」っていうことを、自分に教えようとしてましたね。それで、何度も電話をもらって、話しましたよ。
――そのなかで、「真剣勝負にするのは5年待て」って言われたわけですか?
船木 そうですね。「5年か……その5年間、何をすればいいんだろう」って、気が遠くなった記憶がありますね。
――その「5年待て」っていうのは、前田さんは自分の引退後、次の世代が完全な格闘技としてのUWFをやればいいってことだったんですかね?
船木 たぶん、そういうことだと思います。「早く引退したい」というようなことも言ってましたから。
――当時、世間的には「UWF=前田日明」でしたから、自分の人気で軌道に乗せて、引退後に本格的な格闘技にするという。
船木 でも、その年の12月にUWFは解散してしまったんで、それもできずに終わりましたけどね。
――それから3年後。藤原組を経て、93年9月のパンクラス旗揚げ戦で、ついに全試合格闘技でやるというUWFの言行一致を実現することになるわけですよね。
船木 はい。あれはUWFの最終形をやりました。だからパンクラス旗揚げ戦の前は、不安と期待が半分半分ですね。やっと、堂々と胸を張れる試合ができるっていう喜びと、一体どうなるんだろうという恐怖感。あと、一番怖かったのが、これをファンが受け入れてくれるかでしたね。だから旗揚げ記者会見でも、悲壮感があったと思うんですよ。「自分たちはここまできてしまいました。これしかないんです。いつ死ぬかわからないけど、応援してください」というような感じで。そんなひたむきさ、真剣味がファンに伝わったんじゃないですかね。
――パンクラスは、旗揚げから大きな支持を受けましたもんね。UWFの最後の扉を開けたとき、どんな気持ちでしたか?
船木 旗揚げ戦の試合が終わって、控え室に戻ってきたとき、ホッとしてひとりで便所にこもって泣きました。そのあと、「ようやくできて、よかったね」って、選手みんなに言った記憶があります。ただ、これが到達点ではなく、スタートだったんですけどね。
取材・文=堀江ガンツ
船木誠勝=ふなき・まさかつ|1969年3月13日生まれ、青森県出身。中学卒業と同時に新日本プロレスに入門。15歳でデビューし、20歳で第二次UWFに移籍。93年にはパンクラスを設立し自身も活躍。00年にヒクソングレイシーに敗れ一時引退するも、復帰した。現在は「Hybrid Fitness」でインストラクターとしても活動中。
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